ルカ6:31-36 2023/10/15 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
ハリストスは弟子たちに尋ねました。
「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか」。
「自分によくしてくれる者によくしたからとて、どれほどの手柄になろうか」。
「返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか」。
これは単純な「質問」ではありません。主は問いかけているのです。あなたたちはどのように生きてきたのか、そしてこれからどのように生きるのか、と。
「自分を愛してくれる者を愛する」ことも、「自分によくしてくれる者によくする」ことも、「返してもらうつもりで貸す」ことも、みんな人が普通に考え、普通に行うことです。普通の人間の普通の考えや行動です。ハリストスは弟子たちに、そして私たちに、おまえたちは普通の人間のままで、普通に生きていくのか、それとも…、と問いかけているのです。生き方の決断を促しているのです。
多くの人々が「なぜ?普通じゃいけないんだ、十分じゃないか」と答えるでしょう。
しかし普通はそんなに結構なことなのでしょうか。
「自分を愛してくれる者を愛する」という「普通」は自分を愛してくれない者は憎むという「普通」と一つです。
「自分によくしてくれるものによくする」という「普通」は、自分によくしてくれないものには、よくしない」という「普通」と一つです。
「返してもらうつもりで貸す」という「普通」は、「返してもらえそうのない者には」貸さないという「普通」と一つです。
普通の、愛や親切や助け合いの心が、憎しみや敵意や無慈悲・無関心と一つなのです。
これが私たちが普通の人間として受け入れている「普通」です。
そして私たちがこの人間の「ありのまま」を、「普通」を、生きているから、この世界にはたくさんの悲惨な争いが起き、たくさんの人々が、とりわけいたいけない子供たちが犠牲になっているのです。
実は私たちは、この普通の怒りや、欲望や、妬みがどんなにたくさんの苦悩をこの世にもたらしてしまっているか、身の回りのこととして、自分自身のこととして知っています。人であるなら、神を信じていようがいまいが、これらの「普通」が、「ありのまま」が人のほんとうの姿であるとは、実は誰も思っていません。だから人はいつもこの「普通」に泣いています。
神さまも泣いています。だからこそ、その独り子を、人として私たちのもとにお遣わしになり、人のほんとうの姿を、敵ですら愛する愛を生きることとして、お示しになりました。
イイススはおかかりになった十字架の上から、祈りました。ご自身を殺そうとしている者たちのために、祈りました。「父よ彼らをおゆるしください」。このお方がよみがえったのです。よみがえったのはこのお方だったのです。
人間は「普通」「ありのまま」であることが「本来あるべき自然な姿」ではない唯一の存在です。神さまの私たちへの呼びかけはこうです。「あなたが生きているそのありのままの姿から、可能なものとして私が与えた人のほんとうの姿へと、はてしなく脱出してゆきなさい、限りなく私に似る者になってゆきなさい」。
ハリストスの十字架の受難と死、そして復活は、私たちにもう一度、その普通ではない愛を生きる者になってゆくための道を開いてくださったのです。
そして、人のその道を歩む歩みを支えるために、あふれるほどに聖神の恵みを与えてくださいます。人はその恵みの内で、「光栄から光栄へと、主と同じ姿に変えられて」ゆきます(コリンフ後3:18)。これが私たち主イイスス・ハリストスを信じますと、…「我信ず、イイススハリストス、神の独生の子」(ニケアコンスタンティノープル信経)と告白する者の確信です。