第23主日 説教 ルカ8:26-30 2023/11/12 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススはある日、悪霊に憑かれ墓場を住み処としている男から悪霊を追いだしました。この人の様子をマルコ伝はいっそう生々しく描写しています。
「もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎ止めておけなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押さえつけることはできなかったからである。そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた」。
彼はイイススに名前を尋ねられ、「レギオン」と答えました。レギオンは六千人の兵士を擁する軍団です。数え切れないほど多くの悪霊が彼の内に取り憑いていたのです。悪霊たちは、彼らには勝ち目のないイイススの偉大な力を知っていて、イイススに、自分たちを近くの山に飼われている豚の群れの中に入れてくれと願いました。その願いは聞き入れられました。悪霊に憑かれていた人は正気に返り、豚の群れはなだれを打って湖に駆け下りみな死んでしまいました。
この男のありさまは心を病んだ特別の人のことではなく、私たち人間のありさまです。レギオンが象徴する数え切れない様々な情欲、怒りや憎しみや嫉妬などの情念に引き裂かれ、自分で心も身体もコントロールできず、「制御不能」状態できりきり舞いし、ついには「死」へと墜落してゆく私たちの姿です。聖使徒パウェルはこう告白しています。
「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、わたしは自分の欲することは行わず、かえって自分の憎むことを行っているからだ。…わたしは何とみじめな人間なのだろう」。
この惨めさからどうやって脱出できるのでしょう。
私たちを苦しめつづける情欲や情念を取り除こうとどんなに厳しい修行をしてもそれは不可能です。
情欲は取り除けません、情念は押さえ込めません。情欲も情念も神さまから人に与えられた欲求から生じるからです。欲求です。望み、渇き、飢え…です。その欲求が的はずれの方向を向いていること、それが問題なのです。この欲求の向う方向を変えること、これより他にこの苦しみから逃れる道はありません。
情念や情欲をいくら叱りつけ叩きのめしても、それはさらにたちの悪いものに、まさに叩き直され、むっくりと起き上がってきて苦しみを増すだけです。
私たちの欲求は私たち人間に備わったものです。その欲求は育てられてゆきます。欲求は特定の味わいを味わった時に芽を出し、その味わいを繰り返し味わうことによって大きく育ってゆきます。その点はよい欲求も悪い欲求も同じです。ねじ曲がった危険な快楽の味わいに触れた時、もう一度味わってみたいという欲求が生まれます。二度三度とくり返す内に、もう自分では制御できない悪魔的な力となって私たちを支配します。だから見るもの、味わうもの、体験するものを思い切って変えなければなりません。これしかありません。
危険な快楽、…肉体的な快楽だけではありません。プライドや、裁きや、噂話や、いじめや意地悪の味わいを、神の国の味わいに取り替えるのです。その味わいがここにあります。聖体礼儀に薫りでてくる神の国の味わい、それをご聖体の味わいとして味わうことで、「考え」ではなく「体験」がもたらす「神の国」への欲求が芽生えます。やがてその欲求は神への胸が引き絞られるようなあこがれへと育ってゆきます。その神への飢え、神への渇きが、神を求めて止まない激しい、まさに「神への情念」として心をとらえてゆきます。この世が差し出す無数の快楽の味わいは次第に色あせてゆきます。
ニコラス・カバシラスはこう言っています。
「私たちのために『太陽』はすでに恵みとともに昇った。天の香りがこの悪臭を放つ地上にも注がれた。天使のパンが私たち人に対してさえ与えられた」。
そのパンを分かち合うのがここです。私たちのもとにやがて到来する「神の国」へのあこがれを、のぞみを、欲求を植え付け、育ててゆくためです。いや実は、その国はすでにここに実現しているのです。ここへ来たら、領聖しましょう。