第24主日 説教 ルカ8:41-56 2023/11/19 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
十二年もの間、婦人病で出血が止まらず苦しみ、その治療のために財産を使いはたした女がいました。彼女はある日、奇跡を起こして、どんな病も癒やせると評判の「イイススが来た」という町のどよめきを聞き、その男に最後の望みをかけて、家から弱った身体でよろよろと出てゆきました。彼女は、イイススの後を追う物見高い群衆の間を腰をかがめ縫うようににじり寄り、意を決して後ろから主の衣のすそにさわりました。その時、「血が止まった」のを女は感じました。
主もその瞬間、振り返りました。そして言いました。「わたしにさわったのは誰か。力が出て行くのを感じた」。隠しおおせないことを悟って、女は震えながら進み出て、そのいきさつを語りました。それを聞いて主は告げました。
「あなたの信仰があなたを救った」。
さてしかし、その「あなたの信仰」とはどんなものだったのでしょうか。彼女はその生命の一刻一刻をどんな思いで耐えてきたのでしょうか。血が止まらない、…男には想像すらできない、やりきれない不快、苦しみでしょう。しかしその苦しみは肉体の苦痛にとどまりません。ユダヤ人たちは身体から何かが流れ出て行く状態を「汚れ」としていました。そして血は生命そのものと考えていました。そんなユダヤ人として、彼女の苦しみは、「自分は汚れた人間なのだ」という人格的な自己否定の苦しみであり、同時に長く引き延ばされた死を見つめ続ける苦しみに他なりませんでした。「苦しい、つらい、何とかならないのか」、彼女の心は叫び続けていたに違いありません。そしてたくさんの医者や薬に、おそらくは何人かのまじない師にまでたくさんのお金を投じました。しかし一向によくなりません。お金はもうありません。もう何の望みもありません。このままじりじりと弱り果ててゆく、それもゆっくりと、少しづづ。苦しみは酷く引き延ばされてゆきます。彼女はもう望みを完全に失っていたに違いありません。
しかしそれでも、通りかかったイイススが人々の間に引き起こすざわめきに、ついに彼女は立ち上がりました。ただ「イイススなら必ず私を直してくれる」という、「信仰」と呼べるような確信はなかったでしょう。
彼女は、いわば破れかぶれの「ダメモト」で、最後の力を振り絞ったのです。すでに何もかも失って、かろうじて生きているその生命の最後の小さな炎に、わずかに残っている「生きたい、こんな私でも生きたい」という望みを絞りつくして、「せめて」と衣のすそにさわったのです。
これが「あなたの信仰があなたを救った」と主がおっしゃった時、主が彼女の内に見て取られた「信仰」です。
ところでこの出来事はイイススが、会堂司のヤイロに乞われて、病気で死にそうな彼の娘を癒しに行く途中で起きました。
やがてこの女とのやりとりの場に、ヤイロの家人が駆けつけてきました。そして「お嬢さんはいま亡くなりました。もう先生を煩わすには及びません」と告げました。その報せに失意に落ちたヤイロの思いも同じだったでしょう。「手遅れだったか…、もうこの方をお煩わせてしてはならない」。
しかしイイススは違いました。「恐れるな、信じなさい、娘は助かる」。主はそう言い放ってヤイロの家に行き、娘をよみがえらせました。イイススは人の側があきらめてもご自身はあきらめない、生命の主です。イイススが癒したいのです。「苦しい、つらい。でも生きたい、こんな私でも生きたい」と心に叫ぶだけで、もう何もできない私たちを、癒してやりたい、自分の滅びを怯え震えながら見つめているほかない私たちに、イイススの側が生命を与えたいのです。
イイススとはこういうお方です。ご自身への「信仰の確かさ」を値踏みして、その上で求めに応えたり、「失格」の烙印を押したりする方ではありません。神を見失った闇の中で私たちがあげる、文字通りのやみくもな叫びを、なんと「信仰」としてお受け取り下さり、愛の内にお応え下さるのです。