ルカ10:25-37 2023/11/26 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「どうすれば永遠のいのちが受けられるか」と質問した律法学者に、主イイススは、「君が律法学者なら律法に答えを探してみなさい」と促します。彼は答えます。「『全力を尽くして神を愛せよ、そして隣人を自分のように愛せよ』とあります」。「その通りだ。そうしなさい」と主はあっさり言い放ちます。それに対して律法学者は「では私の隣人とは誰のことですか」と重ねてたずねました。
その問いへのイイススの答えが、本日読まれた「よきサマリヤ人のたとえ話」です。強盗に襲われ半殺しにされて横たわっていた旅人を、彼の同胞であるはずのユダヤの祭司やレビ人は、何かと理由をつけて通り過ぎ、反対にユダヤ人とは犬猿の仲のサマリアの人が、気の毒に思って介抱し助けてやりました。彼は、憎しみや敵意を克服して愛を実践したのです。
たとえ話を終えると主は、「自分にとって隣人とは誰ですか」と問いかけた律法学者に、「この気の毒な人にとって誰が隣人になったか」と逆に問いかけます。イイススはこのたとえ話全体によって律法学者の問いをはぐらかし、最後には彼の問いを別の問いにすり替えてしまったのです。律法学者は「隣人とは同胞のユダヤ人たちだよ」「律法をよくわきまえ守る人たちのことだよ」というたぐいの答えを期待していたはずです。
しかし、そんな風に主は答えませんでした。主は、「私の隣人とは誰?(自分にとっての隣人とは?)」と自分中心に問うている限り、隣人というものは見つからないことを、私たちに教えているのです。もっと突っ込んで言いますと、私たちは「自分にとって」と自分を全ての中心において考え、この世で出会う人たちを「自分にとって何であるか」という関心でしか見ていません。その結果、「隣人」を失い、ちりじりに切り離された孤独のうちを生きている、…いや強盗に襲われて息も絶え絶えになったこのたとえ話の旅人のように、孤独の内に死にかけています。
主は、律法学者の問いを無視し、逆に「誰がこの人の隣人になったか」と問いかけます。ここでは中心は自分ではなく「この人」です。愛とは「この人」の必要を知り(この人の「要求」ではありません)、その必要を満たしてあげることです。「この人」には優しい慰めの言葉が必要なのにお金や物をあげること、反対に具体的な援助が必要なのに優しい言葉をかけるだけ、いずれも、「隣人愛を実践している自分」という心地よいイメージを欲しがっているに過ぎません。そうである限り、互いを隣人として互いのうちに新しく創り出してゆくこと、お互いが「隣人となる」ことはできません。私たちおなじみのしくじりです。その人が「自分にとって何であるか」をむさぼり探す執着を捨てて、自分が「その人にとって何であり得るか」をいつも祈りのうちに問いかけ続けていかねばなりません。それが神が人に与えた人の本来のあり方なのです。
しかし人は、そのあり方を失ってたえず「自分が」「私が」「おれが」と言いつのり続けるいわば「孤独地獄」に閉じこもっています。地獄でも友だちがいればそこはもはや地獄ではありません。人はまさに、このたとえ話で半殺しにされて道ばたに転がって動けない、そういう姿で生きています。
そんな私たち人を「気の毒に思って」神はその御子ハリストスを私たちのもとにおつかわしになりました。そのハリストスが私たちをご自身の隣人にしようと、ここに立っている、
イイススに問いかけた律法学者がほしかった、そして私たちも渇き求めている「永遠のいのち」そのものである御方が、目の前にイイスス・ハリストスとしてお立ちになって、こう招いています。
「私はあなたの必要を知っている。あなたには私こそが必要なのだ。私を信じ、私の愛に身を委ね、私を最初の隣人にしなさい」。