第26主日 説教 ルカ12:16-21 2023/12/03 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「もうこれで大丈夫」。私たちは心からそう思いたい。人の心の「ややこしさ」ですが、人は「大丈夫であること」そのものより、むしろ「大丈夫だと思える」ことを求めてやみません。「大丈夫」そのものなど、この世のどこを探してもないことを、人は知っているからです。では「大丈夫」の追求をやめるかと言えば、反対にだからこそ、何度捕まえたと思っても、その途端にするりと逃げてゆく「大丈夫」を執拗に追いかけ続け、人は何千年もかけ今日の文明社会を造り上げました。依然として少しも「大丈夫」ではありませんが。それどころか…。
本日の福音は、その「大丈夫」の話です。
イイススは「人のいのちは持ち物によらない」と人々に教えた後、次のようなたとえ話をお話になりました。
ある金持ちの農園主が大変な豊作に恵まれました。倉に入りきらず、あふれかえっている収穫物を前に、「さあ困った、どうしよう」。うれしい悲鳴です。そして思いついたのは、倉の建て替えでした。「もっと大きな倉を建てよう」。彼はその思いつきににんまりして、心につぶやきました。
「これで当分の間、生活には困らない。もうこれで大丈夫だ。飲もう、食おう、楽しもう」。
すると神さまが、彼に言いました。
「おまえは今夜、この世を去ることになってるんだ」。おまえが蓄えた物は誰か他の者の手に渡ってしまう、愚か者め。というわけです。
たとえ話を結んで、主はこう仰いました。
「自分のために宝を貯えて、神に対して富まないものは、この男と同じだ」。
本日の福音はここまでですが、実は主はすぐにこう続けました。
「だから何を食べようか、何を飲もうかと、いのちのことで思い煩うな。…空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、何も煩わなくても神は彼らを養い、美しく飾っているではないか」。
「これで大丈夫だ」と思うことと、思い煩うことは同じコインの裏表なのです。 「失われてゆく」…、自分の持ち物が、自分のいのちが…「失われてゆく」、無に向かって滑り落ちてゆく、この底知れない不安に、人はいつも捉えられています。その不安から解放されて「もうこれで大丈夫だ」と思いたくてたまらない。「大丈夫」を幻でもいいから、一瞬でもいいから味わせてくれ!と心は叫び、人はもがき続けてきました。先ほど言った通り文明はそのもがきの産物です。
この不安は、神を知らない、神を信じないことの結果です。
そしてこの不安は、神を信じていたにせよ、その神への信仰ですら自分のために宝を貯える手段にしてしまいます。だから自分の信仰の弱さや不確かさに怯えるのです。宗教が教える隣人への愛の行い、世のため人のために働くこと、気の毒な人たちに親切にし、助けることでさえ、自分に「もうこれで大丈夫」と確かめるために集める「ポイント」にしてしまいます。そうである限り、私たちはいつまでも思い煩いから解放されません。不安からは逃れられません。神の目に、申し分なく「よい人」「ふさわしい人」になどなれないことを知っているからです。
私たちは知らなければなりません。私たちはたくさんのものを失うでしょう。この世でのいのちは遠からず失われるでしょう。しかし神にとって、私たち一人ひとりは永遠に、決して失われることのない、失われてはならない宝です。…それを信じましょう。神という「大丈夫」そのものであるお方に委ねましょう。神は私たちの不安、心配、思い煩いよりもっと大きなお方です。この委ねはしかし、言うはやすく、行うにはとても難しいことです。しかし、考えてみましょう。私たちがこの世のいのちを終えるときには、だれもが、この神という「大丈夫」に委ねるほかないのです。