マトフェイ1:1-25 2024/01/05 大阪教会
ハリストス生まる!
本日の福音では、たくさんの名前が読み上げられ、そして「神は我らとともにす」と結ばれました。このたくさんの名前の連なりは、イスラエル民族の太祖アブラハムからイイススにいたる系図です。
系図は普通、自分の家柄を自慢するために作られます。しかしイイススに至るこの系図は、イスラエル民族の悲惨な歴史、消すことのできない罪の汚点を浮き彫りにします。当時のユダヤ人たち、とりわけイイススを信じ教会に結ばれていった人たちは、ユダヤの民として当然にも、そこに名を連ねた人々が犯した過ちや罪の物語を、子供の頃から繰り返し聞かされていたはずです。この系図は骨肉の争い、悲惨な殺し合い、あざむき、男女の愛憎の葛藤、神への背き…の歴史、深め続けられた罪の歴史そのものでした。彼らは系図の最後に呼ばれるハリストスの名をどんな思いで聞いたでしょう。罪によって傷だらけになった民族の歴史を身に負い、その罪から自分たちを救うお方として、待ち望んだメシヤの到来として、その名は、その名を信じ集う彼らの心に響き渡ったに違いありません。
私たち一人一人の人生にも歴史があります。振り返ってみてください。できることならば消し去ってしまいたいあやまちが、ありました。人を侮り辱めたこと、人の心をもてあそんだこと、卑怯な振る舞いで仲間を裏切ったこと、酷い言葉でいつまでもぬぐい去れない深い心の痛手を、小さな者たち、自分より弱い立場の人たち、また家族にさえ負わせたこと、盗んだこと、夫婦の操を破ったことさえあるかもしれません…。それらのたくさんのあやまちによって、私たちは自分自身に数え切れないほどの傷をつけてしまっています。そこには浅い傷、深い傷、骨まで砕いてしまうような深刻な傷もあるでしょう。私たちはその焼け付くような痛み、突き刺さすような痛み、切り裂かれるような痛み、鈍く押しつけるような痛み、様々な痛みに苦しみ、あえいでいます。叫び出したいくらいです。
そういう私たちがイイススというお方と始めてほんとうの意味で出会う時、…すなわち、アダムとエヴァ以来の罪の歴史、その系図の末尾にその名を置かれたイイススその人が、むち打たれ太い釘で貼り付けにされ、血まみれになって十字架の木にかけられているのを見上げる時、私たちが見るのは決して私たちの「代わりに」苦しんでくださっているイイススではありません。私たちが自ら傷つけた傷を、ご自身は少しも罪がないにもかかわらず、ご自身の傷として分かちあってくださり、私たちの苦しみを一緒に苦しんでくださる、そのために「人となった」神です。逆にこうも言えるでしょう。傷だらけの私自身が、神であるのに人の姿に身を落とされたイイススに受けとられ、さらにイイススご自身とともに、そこに釘付けられているのです。イイススとともに死ぬために。
このお方が三日目に復活しました。傷つき血まみれの私たちは、傷つき血まみれのイイススとともに死にました。そしてよみがえったハリストスとともに、私たちもよみがえりました。傷は癒えました。ただ傷跡は残って、時には激しくうずくでしょう。しかし、その癒えた傷跡は今やよみがえりのしるしです。自分自身を、取り返しがつかないほど深く傷けた私が、私たちが、主に癒されたしるしです。新しい生活、…ハリストスとともに罪と戦い、ハリストスとともに自らを神に献げ、ハリストスとともに食事をし、ハリストスとともに働き、ハリストスとともに祈り、ハリストスともに喜び歌い、ハリストスとともに悲しみ、またハリストスとともにはればれと笑う生活が始まりました。そしてもう私たちはひとりぼっちではありません。みんなと一緒です。ハリストス・イイスス、「神は救う」という名のお方、同時にハリストス・エンマヌイル、「神は我らとともにす」という名のお方とともに、「私」は「我ら」へと結び直され、神の国へ歩み始めます。
神が我らと共に歩んでくださる新しい時が、家畜をつないだ洞窟でひっそりとお生まれになった、イイススとともに「いま」始まります。