(28)説教 ルカ伝14:16-24 2024/12/29 大阪教会
ハリストス生まる!
人は食べなければ生きられません。食べないとだんだんやせていき最後には骨と皮だけになって死んでしまいます。誰でも知っています。
しかし私たちは、人が、人として「ほんとうに生きる」ことでも同じだということはすっかり忘れています。
「ほんとうに生きる」なんて、とてもあいまいな表現をしましたが、実際の所「ほんとうに生きる」とはどういうことなのか感じ取ることも、ましてきちんと言葉で言い表すこともとても難しいことです。でも反対に「ほんとうに生きていない」時には、それを痛切に感じ取れます。無気力なとき、孤独なとき、ふてくされているとき、憎んでいるとき…、私たちは「ほんとうに生きて」いません。たとえそこそこ「シアワセ」な生活を送っていても、心の片隅で「これはほんとうのもの」でないと、漠然とでも感じて、何かいごこちが悪い。これらの何か的を外しているという「不安」こそ、私たちに「ほんとうに生きる」ことがたんなる言葉ではなく実際にあること、あり得ることを指し示しているのです。
この「ほんとうに生きる」ことが「生きる」ことである限り、やはり食べ物を食べなければ生きていけません。気力に溢れ、「充実」した生活を送っている人でも、もし外から栄養をとらず、今自分の持っているもの、知識や信念、経験やプライドを糧として生きようとするなら、やがてそんなものはみんな食い尽くされついには、お酒に酔って浮き浮きした気持ちが冷めてくるように、何もかもが無意味に見え始め、やがて「やせて」ゆきます。死んでしまうかもしれません。
たくさんの人々がそれぞれに、いろいろな「ほんとうではないもの」を「ほんとうのもの」と思い込んで生きています
神さまは、「ほんとうに生きる」ことを見失ってしまった私たちに、ハリストスを通じてご自身のお体を、「ほんとうに生きるための」「ほんとうの食べ物」として「これを取って食べなさい」と差し出して下さいます。しかも単なる栄養摂取のための給食としてではなく、ただ今読まれた福音が示すように、ご自身みずからがおもてなし下さる宴会「うたげ」へと私たちを招くのです。
なぜなら神さまが下さる食べ物を、すなわちこの世界、この「時」、このいのち、この日々の暮らしを…、神さまからの愛の贈り物、神さまの私たちへの愛の表現として…、歌い、讃え、感謝し、神さまが集められた集いとして愛の交わりの宴を分かち合うことこそが「ほんとうに生きる」ことだからです。
主イイススが世の終わりに再びこの世へおいでになる時、私たちは新しい体をいただいて復活し、新天・新地のまばゆさに包まれます。そこで催される「神が人とともに住み、人は神の民となり、神みずからが人とともにいる(イオアン黙示録21:3)」宴が、まさに今、神さまの「特別の恵み」として、まさに今、ここにあります。今私たちが集い、主を讃え、主に感謝し、主のお体と血を分かち合う聖体礼儀です。教会です。主の聖体血に養われ、主の御言葉に導かれる生活です
この世で力を持ち、この世の生活を面白おかしく、如才なく器用に生きる人たちはいろんな言い訳をして、この神さまの招きに応じませんでした。そして本日の福音が告げるように「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人」、すなわち病を負い、生きることに不器用で、罪に深く傷つき、暗闇の中を手探りするように生きてきた私たちが、思いもかけずこの信仰の宴に招き入れられました。世の終わりに、信じる者に約束された「ほんとうに生きる」喜びを、今この時、与えられます。ハリストス生まる!