第25(30)主日説教 ルカ18:18-27 2024/12/15 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
神の国で、永遠の生命に与るには、どんなことをしたらよいのでしょうかと尋ねた一人の金持ちの役人に、イイススは最後にこう告げました。
「持っているものを、なにもかもみんな売り払って、貧しい人々にわけてやりなさい。…そしてわたしに従ってきなさい」。
できれば、耳をふさぎたい言葉です。
きまじめに教会に通って、長いお祈りを最後まで辛抱して、「神を愛している」ことを人々に示し、自分に確かめることなら、何とかできそうです。自分を傷つけた者への激しい憎しみをこらえて、償いや復讐を断念して、主の「ゆるしなさい」という教えを実践することなら、かろうじてできそうです。しかし、持っているものを何もかも貧しい人々に施してしまうこと、これだけはできそうにありません。自分の持ち物は、自分のためではなく家族の最低限の生活を保障するためだ、自分の財産は社会のための、貧しい人々のための有効な使い方が見いだされるまで自分が預かっているにすぎないのだ、…自分自身に、いろいろな弁解をいくらしても、また他の人がいくらその弁解を正当なものだと認めてくれても、他ならぬこの自分が知っています。ハリストスがはっきりと教えている最も大切だという戒めを実行していない。神の国には入れない、永遠の生命には与れない。
この同じ思いで、主に問いかけた金持ちの役人も、悲しんで立ち去りました。皆さんも立ち去りますか。私だって自らを振り返れば、もうこの説教を投げ出してしまいたい気持ちです。自分好みの箇所を読んで、「自分なりのキリスト教」を説教して皆さんに披露して得意になると言ったたぐいのものではありません。私はこの今日の福音の厳しい教えの前に、もう少し踏ん張って立ちつくすほかないのです。ハリストスはどうしてこんな厳しいことをお命じになるのでしょう。
同じ福音をマルコ伝も伝えていますが、この厳しい言葉を主は「彼に目をとめ、いつくしんで言った」とあります。「目をとめ、いつくしんで」はもとのギリシャ語では「彼を見つめ、彼を愛して」です。愛する者はその愛する相手を苦しめようとは決してしません。イイススは一人の金持ちに、またこの私たちに、そんなことを言ったら彼らが苦しむことを承知で、あえて最も厳しい言葉を投げかけたのですから、そこに溢れる愛はどれほど深いものでしょうか。この愛の深さこそ、ついに十字架上で主が身を以て明かにしたものです。私たちのために十字架の苦痛と死を忍ぶほど私たちを愛しておられる方が、私たちを苦しめることを承知でおっしゃった言葉の前に、たとえ「立ちつくす」ことだけしかできないにせよ、踏みとどまりませんか。主は、隣人のために何もかもを投げ出して献身したときに与る喜びを知らぬまま、自分のわずかな持ち物を惜しみ、そこから離れられず、ついに何ものも手に入れずに、おびえながら滅びてゆくに違いない私たちを、なんとかして救い出したいのです。ないしは、自分で稼いだ財産を自分のために大切に蓄え、自分の楽しみのために自由に使ってなぜ悪いんだ、…ともう少しで「貧乏人は努力が足りないんだ、その報いは受けて当然だ」と啖呵を切って、人間の顔を失ってしまいそうなこの私たちを、何とか救い出したいのです。そんな私たちが哀れで哀れでならないのです。主は、チェックリスト片手に神の国に入場するためのルールや条件を私たちに教えておられるのではありません。「神の国に入ろうよ」、「人の真の喜びを手に入れようよ」と訴えているのです。
立ち去った金持ちを見送って、イイススは弟子たちに言いました。「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方がやさしい」。不可能だと言っているのです。それではいったい誰が救われるでしょうと、弟子たちは思わず声を上げました。主は答えました。「人にはできないことも、神にはできる」。
「神にはできる」。これが唯一の希望です。私たちを追いつめ苦しめてやまないハリストスの厳しい戒めの前で、「そんなことなど到底できない」と胸を打ち、頭を抱え込みながらでも、立ち去ることだけはせず、踏ん張って、互いに手を携えて立ちましょう。そこに溢れているのは、一人でも多くの者を失格させてしまおうと身構える意地悪な試験官の冷酷さではなく、一人でも多くの者をご自身の平安のもとに招きたいと手を広げている、十字架で証しされたハリストス・神の愛であることを信じて。