ルカ12:16-21 2024/12/01 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
大豊作に恵まれた金持ちがうれしい悲鳴を上げます。「こまった。収穫をしまっておく場所がない」。そこで、古い倉を大きな倉に立て直すことにします。そしてほくそ笑みました。「しめしめ、これだけ蓄えがあれば、いつまでも安心して豊かに暮らせる」。それを聞いて神さまが彼に言いました。「愚か者よ。おまえは今夜死ぬのだ。そんな蓄えが何の役に立つものか」。
「自分のために宝を積んでも、神に対して豊かにならない者は、みなこれと同じだ」。イイススはこう言ってたとえ話を結びます。
このたとえ話は昔から「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれてきました。
しかし、ほんとにこの金持ちは愚かなのでしょうか。安心して豊かに暮らせるように知恵をしぼることが、そんなに愚かなのでしょうか。…そうです。「今」の、「この世」での生活に心をとらわれて、神のために、そして死後も神との関係の内にあり続けることに、心を用いない愚かさです。
しかし、いまこのたとえ話を聞かされている私たちが生きている、この社会は神の存在や、霊魂の不死を信じていません。それらが自明のことと誰もが信じていた時代ははるか昔に終わりました。そうであるなら、この世での生活を唯一の、幻ではない確かな現実と見なして、せめて生きている間、安心して豊かに暮らせるように知恵を絞るのは当然でしょう。愚かさどころか、賢さではないでしょうか。
私たちの愚かさは実は、「賢く」生きている私たちがその賢さの前提としている「神を信じない」、「目に見える現実しか真実としない」生き方の愚かさです。「愚かさ」というより「惨めさ」です。そんな生き方に居直るほかない惨めさです。実はこれをこそ、ハリストスは「愚か」と言っているのです。
そこから逃れ出る道はあるのでしょうか。…あります。
それはそうんなふうに居直って生きている人、生きていける人は実際にはほとんどいない(!)ことが証しています。神を信じない生き方に人は居直れないのです。お金を求めて、「しあわせ」を求めて、あくせく働くことが、…目の楽しみ、耳の楽しみ、口の楽しみ、体の楽しみを次々とっかえひっかえ、飽くことなく求めてやまないことが、落ちつきなくさまよい、あちらこちらをキョロキョロ見回して「何かいいこと無いか」と自分を駆り立てていくこの私たちの姿そのものが…、人は、移り変わるこの世のものではなくホントは神を求めているということ、神がご自身に向けて人を創造されたこと、人の理解や納得はまったく超えているにせよ、さしあたって「神」としか呼んでおくほかないお方が存在し、私たちに呼びかけていることの証拠です。
だからこそイイススは本日の福音「愚かな金持ちのたとえ」に続き、空の鳥を野の花を見よ、…この世界そのものが神からのすばらしい贈り物ではないかと、呼びかけるのです。
神の存在をむりやり「信じ込み」、そこにしがみつくことが「信仰」ではありません。目に見えるものだけが真実という逆の「信じ込み」をまず捨て、神という言葉をひとまず忘れて、あらゆるものに心を開き続け、この目に見える世界を「見えない真実」が開き示される場として、「驚きの場」として取り戻してゆくこと、…「神(主)をおそれることは、知恵の始まり」(箴言1:7、9:10)という聖書の言葉が意味するのは、これです。「おそれる」は怯えることではありません。「驚きに打たれる」ことです。その時、私たちは「愚かな者」ではなく、「生きた神」とのまことの交わりに生きる、まことの知恵に生きる者となってゆけるのです。