ルカ8:41-56 2024/11/17 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
十二年間も月のものの血が止まらない病で苦しんでいた一人の女がいました。不快感は耐えがたいものでした。そんな体では外出もままなりません。家でじっとしているほかありません。そして流れ出る血が体力を少しずつ消耗させます。いつも疲れが全身を覆っています。しかし、それにもまして、彼女が苦しんでいたのは自分が「けがれた者」であるという意識です。ユダヤ人であれば、肉体から何かが漏れだしている状態というのは「汚れ」であり、そういう状態にある者に触れれば、触れた者も汚されると知っていました。彼女のつらさは、神聖さへの感覚を失った現代人には想像が及びません。何とかして治したい…、彼女はよい薬と聞けば取り寄せ、よい医者と聞けば呼び寄せましたが、いっこうによくならず、とうとう全財産を薬や治療のために使い果たしてしまいました。
そんなある日、家の外がにわかにざわめきました。多くの奇跡的ないやしを行ったことで評判の、ナザレのイイススが、「瀕死の娘を助けてほしい」と取りすがった父親に連れられて、その家へ行くところでした。女は意を決して家を出ました。群がる人々をかき分けようやくイイススの後ろからにじり寄りました。そしてイイススの衣の房に一瞬手を触れました。自分のような汚れた者は、このような聖なるお方の前に出ることさえ、まして取りすがることなどとても許されるものではないという思いが身を潜めさせ、それでもいやされたいという願いが手を衣に伸ばさせたのです。
女の血はその時止まりました。イイススは汚されませんでした。反対にイイススが汚れた女の汚れをきよめました。
汚れが次々とそれに触れる者を汚してゆく世界に私たちは生きています。罪が罪を呼び起こし、その罪がさらに大きな罪を招き寄せ、人間全体の罪は深まってゆくばかりです。アダムとエヴァの罪はつまみ食いにすぎません。しかし、今人は神の名さえ持ちだして人を殺します。この「人の罪」が次々と世界を汚し、その汚れの内に生まれてくる人は、その汚れに染まって生まれて来るほかないのです。汚れが次々と、それに触れるものを汚してゆくこのおぞましいつながりに、はじめて逆転が生じました。ハリストスのきよさが、人の汚れをきよめたのです。
ハリストスは神です。本来汚されるようなお方ではありません。それに触れる者たちをきよめるお方です。かつてエジプトを脱出したヘブライ民族に「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者にならなければならない」と宣言した神、その神の子が汚されるなどと言うことはあり得ません。
そのお方、ハリストスが、しかし、汚されたのです。ハリストスが「この世」で何もよいものを実現してくれなかったことに憤った民衆に襲いかかられ縛り上げられました。弟子たちにさえ裏切られました、逃げ去られました。自分たちの偽善と悪がその光によって明るみに出された宗教指導者たちに不当な裁きを受けました。好奇心むき出しに群がってきた人々に罵られ、嘲られました。ハリストスに憎しみも格別ないかわりに、いささかの同情も抱かない兵士たちにむち打たれました。十字架に釘で打ちつけられ、やりで刺され、殺されました。汚されるはずのない方、汚されてはならない方が、汚れた人々、汚れたこの世に、そして今も私たちに…、汚されました、汚され続けています。
しかしそれでもなお、この世はハリストスを汚すことはできませんでした。この世はハリストスを打ち負かせませんでした。三日目に主は復活しました。栄光の体をもって天に昇りました。そしてご自身の体・教会として、そこにあふれる聖神の恵みによって私たちをきよめ続けています。そしてきよめられた私たちは「うめきながら」「神の子たちの出現を待っている」この世をきよめることへと促されています。長血の女から始まったきよめの連鎖の最先端にいるのです。
長血の女は後ろからにじり寄って、主の衣に触れましたが、いま私たちはまっすぐにハリストスに近づきそのお体、その血をいただきます。