ルカ8:5-15 2024/10/20 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音で主イイススは、撒かれた種が落ちだ地面や環境の違いでうまく育たないように、人の心に落ちた神の言葉という救いの種も、育つことなくその人の心から立ち消えてしまうことがある、という苦い真実を語ります。
しかし忘れてはなりません。主は「良い土地」もあると言います。深く鋤や鍬が入り、空気も水もよく行き渡った「耕された土地」です。そういう土地は神の言葉を聞いて大きな実りを手に入れることができると。
ある聖師父はこの福音について、心を耕すのは祈りであると教えます。よく耕やし掘り起こされないと、地面はカチカチで空気も水も入ってゆかないのと同じで、よく耕されていない心には聖神の働きが染み通ってゆきません。聖神の恵みがなければ、イイススのみことば、救いをもたらす「種」は、心に根を張らず、ただの「知識」で終わってしまいます。人を生かす「いのちの言葉」にはなりません。たゆみない祈りが必要です。
でも「私はたんに習慣的に祈っているだけで、心が少しもこもらず、こんな祈りに何か意味があるんだろうか」と感じることがあります。そして祈ることを止めてしまう。・・・もちろん、心がこもる方がよいに決まっています。でも祈る習慣を捨てないで下さい。どんなにかたい地面でも、クワを打ち続けていれば、いつか畑にふさわしい「よい地」、ほくほくの地面になります。
主は、「みことばを聞いた後、これを正しいよい心でしっかりと守り、堪え忍べば、実を結ぶに至る」と励ましています。「堪え忍べば」です、「単なる習慣ではなんにもならない」とへこたれないで、祈りの言葉には自分の力ではなく、神の力が働くことを信じて、根気よくその習慣を続けてゆきましょう。
たとえ口先だけの祈りであっても、少なくとも祈ったすぐ後には、その口で、人は罵れないでしょう。
習慣を馬鹿にしてはなりません。悪い習慣は気がつくと自分を想像もできなかったようなひどい人間にしてしまいます。
反対に、良い習慣、毎日の祈りが、いつか奇跡のように、神様へと心を開いてゆきます。かならず。「おれははこんな人間ではなかったはずなのに」と目をみはらせてくれます。