ルカ7:11-16 2024/10/20 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススはナインという町の城門で、一人の若者の柩が墓場に運ばれてゆく行列に出会いました。一人息子を失ったやもめの母親が泣きながらおろおろついて行きます。主はその憐れさに胸を掻きむしられ、若者の冷たい体に触れて命じました。「若者よ、おまえに言う。起きなさい」。
すると息子は起きあがり「ものを言い始め」ました。
「あなたに言う」。なんと強い響きを持つことばでしょう。
私が「起きなさい」と命じているのは、他の誰でもない、おまえだ。
この言葉は、実は私たち一人ひとりに向けられた言葉なのです。しかし私たちは、主がこの私を「おまえ」と呼んで呼びかけて下さっていることに気づき、その言葉が、胸に突き刺さらない限り、「私」は「起きて、ものを言い始める」ことはありません。
「あなたに言う、起きなさい」。この言葉は、自分がまるで死んで棺に横たわっているかのようにしか生きていないことを痛切に知る者にしか、届きません。
人間が堕落していることを知っている人は大勢います。しかし「自分の」堕落を知っている人はまれです。
人間の悲惨さを知っている人は大勢います。しかし「自分の」悲惨を知っている人、自分の悲惨さを苦しみとして泣いている人はまれです。
人間の弱さを知っている人は大勢います、人間の罪深さを知っている人も大勢います、しかし「自分の」弱さ、罪深さを嘆き、うめく人はまれです。
人間は死ななければならないことは、みな知っています。しかし「自分が」死ななければならないこと、もしかしたらもうすでに霊的には死んでしまっていることを知る人はまれです。
…だからこの世には依然として、すでにハリストス御自身の死と復活によって「最後の敵」として滅ぼされたはずの死がのさばり返っているのです。
葬列は何度も繰り返し、墓場へと町を出てゆきます。
それもこれも、ほかでもないこの自分が死んで横たわっており、ハリストスの十字架の赦しも、復活もみな、墓場に運ばれてゆく「この自分のため」であることを知らないからです。だから主はその宣教のまず第一声を「悔い改めよ」と呼びかけることから始めたのです。しかし勘違いしないでください。主は「反省しろ」と言ったのではありません。反省が私たちを罪から救うことはありません。ハリストスの悔い改めの呼びかけは、自分が死んだようにしか生きていないことを知り、自分はその死に支配された罪の生き方に対して全く無力であることを骨身に徹して知りなさい、打ちのめされなさいという呼びかけなんです。ここからしか何も始まらないのです。
聖使徒パウェルもうめくようにこう言いました。
「わたしは自分のしていることがわからない。なぜなら、…わたしの欲している善は行わないで、欲していない悪は、これを行っているから。…わたしは、何というみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ロマ書7:15、19、24)。
しかし、パウェルはついに、喜びに溢れて叫ぶように言います。
… 「私たちの主イイスス・ハリストスが!」。
私たちもパウェルと共に、その死から自分を引き起こしてくれるのはハリストス・イイススこのお方しかいないと信じ、思いを決して、手をさしのべなければなりません。
主が、私の棺の傍らに立って、「あなたに言う、起きなさい」と呼びかけておられるのですから。
その呼びかけはお叱りや励ましである前に、何よりも救いの「お約束」なのですから。