ルカ10:38-42、11:27-28 2024/10/13 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
生神女庇護祭の福音はちょっと変わっています。まず、お話それ自体は生神女の出来事ではありません。マリアは出てきますが別のマリアです。しかも、ルカ伝の別々の二つの箇所がつなぎ合わされています。一つは有名な「マルファとマリア」のお話。マルファとマリアの姉妹がイイススをお客に迎えました。しかし、お姉さんのマルファが、妹のマリアへの憤懣を募らせてイイススに訴えます。「わたしがあなたのもてなしの準備にこんなに忙しくしていいるのに、マリアったら、しらんふりであなたの足もとにどかっと座り込んでお話に夢中。何ともお思いにならないんですか」。イイススは、たぶん優しく微笑みながら、「マルファさん、あれもこれもと何でも、ぬかりなく、ちゃんとやろうとするから、大切な一つのことがわからなくなってるんですよ。マリヤはその大切な一つを選んだんです。邪魔しないで、見守ってあげてください」。
そして日本正教会の福音経では三ページ分ほどもジャンプします。
主がマルファを諭したお言葉を聞いた婦人が「あなたを生んだ腹と、あなたにお乳を飲ませた乳」すなわち、あなたの母マリアは何とめぐまれていることでしょうと叫びました。それを聞いたイイススのお答えは「その通りだ、神の言葉を聞いて、それを守る者は、さいわいである」でした。
「神の言葉を聞いて、それを守る者」。ここにはご自身の母マリアと同時に、自分の足もとで耳をかたむけているマルファの妹マリアが重ね合わされています。さらに神の言葉を聞いてこれを守る者すべてへ、主の眼差しは及んで行きます。何とさいわいだと叫んだ婦人と、彼女と共にいる人々、そして今ここでこの福音に耳をかたむけている私たちすべてに、「そうだ、あなたたちはさいわいだ、恵みのうちにいるこの祝福を喜びなさい、そしていっそう神の言葉に耳をかたむけ、それを守って、さらなるさいわいに、さらなる喜びに入っておいでなさい…」。
このあふれ出て、この世全体に及んで行くさいわい・祝福の、そもそもの始まりが、天使ガブリエルから示された「おめでとう、あなたはいと高き者の子と呼ばれる男の子を生むだろう」という神さまの意志への生神女マリアの従順でした。しかし従順とは言っても、怯えふるえあがって服従したのではありません、彼女の「お言葉どおりになりますように」という同意はガブリエルの言葉をうけとめて直ちにではなく、「思いをめぐらせた」末のものでした。これは重要です。マリアは神さまから一方的に、神の子を生むためのいわば「借り腹」として有無も言わせず「動員」されたのではありません。神さまはマリアに「いかがでしょうか」とご提案なさったのです。「お申し出」くださったのです。世界を創造されたまさに「いと高き方」が、その被造物の一人、まさにその「はしため」に過ぎない一人の女に、意向を尋ねてくださったのです。それはとりもなおさず、このマリアからあふれ出て、私たち一人ひとりにも同じ「さいわい」が与えられようとしていることを意味します。神さまは、私たちの罪深さをよくご存知の上で、あえて私たちを「神の言葉に耳をかたむけ、それを守る」者とみなしてくださり、「私の恵みを受け取って、わたしの喜びに入ってきませんか」と、わたしたちへ申し出てくださっているのです。神さまに命じられているのではなくて、「いかがでしょうか」と提案されているのです。人とはそれほどまでに、神さまから愛されているのですよ!
あなたのお母さんはなんて素晴らしいという叫びに「然り、その通り」とマリヤを讃えたことは、私たち人間全体を讃えたということなのです。マリアにあり得たことは、私たちにもあり得るというまさに福音として理解されなければなりません。マリヤが神のお申し出を受けとって「神の子」を生んだなら、私たちもまた、人生の折々にかたじけなくも申し出られる、神のご提案を従順に受けとり続けることで、生涯をかけて自分を神に似る者としてゆけるのです。すなわちマリアと同じように「神を生む」ことができるのです。