ルカ5:1-11 2024/10/6 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
ハリストスのお弟子たちの多くが、主に出会う前は漁師でした。ある日、一晩中湖で漁をしたのに魚は一匹もとれません。何度網をおろし、たぐり寄せても、手応えはさっぱりです。「もう、だめだ。今日は漁はおしまいだ」とがっくり、帰り支度に取りかかったとき、イイススが声をかけました。
「沖へこぎ出して網をおろして漁をしてみなさい」。
彼らは、互いに顔を見合わせました。
「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も獲れませんでした」。
しかし彼らは最後には「ではお言葉ですから網をおろしてみましょう」と、主のおっしゃったとおりにしました。すると何と、網が張り裂けんばかり、船も沈んでしまうかと思われるほどの大漁でした。
彼らは主の言葉に従いもう一度漁を試みたのです。しかしそれまでと同じことをただ繰り返したのではありません。主イイススの「教える通り」、沖へ、すなわち「深いところへ船をこぎだして」初めて大きな成果を上げることができたのです。
私たちも主イイススの「教える通り」、「深いところへこぎ出さなければなりません」、即ち私たちの生き方を深いところから、根底から、主イイススに向け変えなければなりません。結婚式やお葬式と言った自分に必要な時だけのクリスチャンであってはなりません。今日は、世間のつきあいも、趣味の集まりもない日だから教会へといった、都合のいい時だけのクリスチャンであってはなりません。また心がハレバレしていて、久しぶりに聖歌を歌いたい気分だから、即ち、気分がいい時だけのクリスチャンであってはなりません。むしろ、隣人への愛のために自分の痛みをこらえなければならない時、試練に耐えなければならない時、人との葛藤に心が引き裂かれる時、苦しみの時、希望を見失いそうな時、即ち「自分の十字架を背負わなければならない」時、そう自分がクリスチャンであることを見失いそうになる時にこそ、私たちはクリスチャンでなければなりません。
私たちがハリストスに従い人生の最も深い部分からクリスチャンであろうと決意し、へこたれることなくもう一度漁にでるなら、かならず大きな成果が上がります。しかしその成果は量では測れません。本日の福音はもう一度網を下ろすと「大漁」だったと伝えます。しかしそれは象徴的な表現です。生涯かけて教会に招くことができたのが、たった一人であっても、その人が人生の最も深い部分で主イイススに触れ、神に愛される喜びに満たされ、もう一度立ち上がり生き始めるなら、その生き始めを分かち合う私たちの心には躍り上がるほどの「大漁」の喜びがあふれるでしょう。本日の福音、網の中で跳ね上がる無数の魚、弟子たちが感じた網からぶるぶるっと伝わる手応えがそれを象徴しています。
ハリストス・神の喜びもまた迷い出た一匹の羊を見つけ出して群れに連れ戻す喜びだったことを、思い起こしましょう。