マトフェイ22:1-14 2024/09/29 大阪正教会
父と子と聖神の名によりて
イイススはいくつかのたとえ話で人々に教えています。今日はその中でも特に有名な「婚宴のたとえ」です。
王子の婚宴に、早くから招かれていたのに、いよいよ当日になっても知らん顔で、やってこなかったそんな人々に代わり、手当たり次第に町にいる人々が連れてこられました。いよいよ宴が始まろうとする時、王様はその中に婚宴の礼服を着ていない人を見つけました。「君はどうして礼服を着ないのだ」と尋ねても彼は何も答えません。王さまは怒り、「泣いても、歯ぎしりしてもかまうな、こいつを真っ暗な外の闇に放り出してしまえ」と僕たちに命じたというお話しです。
この人は、どういう人なんでしょう。礼服を着なかった人です。なぜ着なかったのでしょうか。
この人は「自分の服を脱がなかった人」「礼服に着替えるのを拒んだ人」と言い替えてみると、真相が見えてきます。
当時、宴会では主人側が礼服を用意してくれ、客はそれを着て宴に臨みました。したがって、この人は与えられる「礼服」ではなく、あえて「自分の服」で押し通そうとしたのです。王様はその強情さに腹を立てたのです。
この世にはキリスト教をよく知り、敬意さえ払ってくれる方たちがたくさんいます。しかしその方たちの多くは決して自分で理解したキリスト教から離れようとしません。だから「イエスの愛の教えは立派だが、キリスト教の一神教的排他性は、常に宗教戦争の一因だったね…」などと仰います。そして現代の「クリスチャン」と自称する人たちのなかにも「十字架は信じるが復活は信じない、罪の赦しは信じるが、身体の復活や最後の審判は信じない」と言う人さえいます。黙ってはいても案外心の底にはそういう思いが潜んでいて、「私なりの信仰」で良しとしている人も多いでしょう。しかし「いいとこ取りの信仰」は、神への、ハリストスへの信仰、教会の信仰ではなく、そう考えるその人自身への信仰、自分自身を神の立場におく『信仰』です。そのような考えが、その方たちの真剣な内面的格闘の末のものであれば、何も申しません。神の憐れみを祈るばかりです。ただ、それはキリスト教の、少なくとも正教の信仰ではないことは、知っておいて欲しいのです。
教会はこのたとえ話で、「礼服」でたとえられているのは「痛悔」「悔い改め」であると教えてきました。痛悔、悔い改めというと、私たちは「ごめんなさい、反省です」、というようなイメージで捉えがちですが、そんな生やさしいものではありません。
古代の大変名高い聖師父は、死に臨んで「わたしは果たして『悔い改めということ』など、かつてしただろうか」と、嘆いたほどです。
私たちが、クリスチャンとして世の終わりにハリストスを囲む「神の王国の宴」にふさわしくある第一歩は、まず「自分の服を脱ぐ」ことです。「自分の服」すなわち「自分の経験」「自分の思い」「自分の感性」、そして「私なりの信仰」、そんなものに固執する自分を捨て、神の側から照らされる光の中に身を置く事です。神の光の中に身を置くといっても神秘体験じみたことではありません。聖書もその一つである教会の伝統、とりわけ今ここにある聖体礼儀の喜びの内に、頑固な自分を、その頑固さから解き放って生き始めることです。そして、互いが愛し合い、励まし合い、助け合い、赦し合うなかで「ハリストス」というお方を「着る」ことです。
これは少しも難しいことではありません。礼服は招待してくれる側が用意し、求めればかならず与えられるのですから。