マトフェイ伝21:33-42 2024/9/22 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
捨てられたものを拾って、それをたよりに生きなければならない生き方ほど、惨めなものはありません。そんな生活の中では、ほかでもない自分自身が「捨てられたもの」という思いに打ちのめされます。ハリストスの福音はまず、そんな思いで生きている人たちのもとに届きました。自分自身を「くず」のような存在としか思えない人たち。娼婦たち、税吏たち、罪人として蔑まれる人たち。…立派な人々、強い人々、正しい人々、胸を張って生きる人々のお目こぼしで、自分はかろうじて生きている、お情けを拾って生きているにすぎない」と自分を嘲ることによって、なんとか自分を保ってきた人たち、…まず、そういう人たちのもとに神の国の福音が届きました。
本日の福音は、主人からぶどう園の管理を任せられた農夫たちが、収穫を集めに来た主人の召使だけではなく、なんと主人の息子さえも殺して、収穫をしてしまうという、主イイススのたとえ話です。このたとえ話は、神の民として選ばれたユダヤ人たち、とりわけその宗教的指導者たちに向けられたものです。彼らは神から与えられた特別の権威や地位に思い上がり、自分たちがいただいた「神の正しさ」を、「自分自身の正しさ」へといわば横領してしまいました。主イイススはさらに、彼らは、そんな彼らに悔い改めを迫る神の子・イイスス、(すなわち自分)を殺そうとしているのだと、暴露したのです。主は最後に旧約聖書の聖詠から「家造りたちの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える」という言葉を引用します。事実、やがて主イイススは「ぶどう園の外に引き出され(マトフェイ21:39)」、すなわちエルサレム城外で十字架にかけられ、殺され、そこにうち捨てられました。
イイススは無力な敗北者として歴史のがらくたの中にうち捨てられました。
ところが、この「家造りらの捨てた石」が「教会という新しい生き方」の「隅のかしら石」・要となる石となりました。教会は今や世界中で「捨てられたものを拾って生きるほか無い」と思い込んでいる人たちに、生きる力を与え続けています。私たちの目には「不思議に見える(21:42)」ことです。
ハリストスは拾われるために捨てられた石です。「神の力なんか借りなくても俺は立派に、強く、正しく生きていける」と胸を張る人たちが、「何だこんなもの」と今も捨て続ける、いや目をとめもしないハリストスという石を、私たちクリスチャンは拾ったのです。拾って私たちの人生の要石に据えたのです。私たちが拾ったお方は捨てられたお方です、だから捨てられた者の苦しみを知るお方です、十字架上で「わが神よ、わが神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神にさえ見捨てられた絶望を叫んだお方です。このお方を人生の主として、受け取ったとき、その時、主の励ましが静かにしかし力強く私たちの内に響きます。
私たちが罪の意識に苦しむなら、「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された(マトフェイ9:2)。私はあなたを罰しない。…今後はもう罪を犯さないように(イオアン8:11)」と。
病気で苦しんでいるなら、「しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心してゆきなさい(マトフェイ9:22)」と。
そして、いよいよ生きてゆく勇気を失い身動きできなくなったなら、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう(マトフェイ11:28)」と。