ルカ16:19-31 2024/11/3 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
金持ちが毎日贅沢に遊び暮らしています。一方、この金持ちの家の玄関先には、全身腫れ物に覆われ、犬がその膿を舐めに来ても追い払えないほど弱り切ったラザリという物乞いが横たわっています。何か恵んでもらえないかと待っているのです。しかし金持ちはラザリにはまったく無関心、追い払いさえしません。…やがてラザリも金持ちも死にます。ラザリは天国に入れられます。金持ちは地獄に落ち、そこで燃えさかる炎に焼かれ、天国から見下ろすアブラハムに願います。「どうかラザリをここに遣わせて、冷たい水で私の舌を冷やさせてください」。アブラハムは答えます。「お前は生前よい思いをしていたじゃないか。ラザリが飢えて苦しんでいたのに、パン屑一切れでさえ施さずに…。それに私たちとお前の間には大きな淵があって、もう行き来できないんだよ」。
この話は有り余るほど持っていながらも、貧しい人々、難儀する隣人たちを憐れんで助けてやらないなら、死後は地獄で、耐えがたい苦しみを受けることになる…、という警告として説教されるますが、少し掘り下げてみましょう。
ラザリは飢えて食を乞う者です。金持ちは満ち足りています。だから乞うことも求めることもしません。人助けもしませんでしたが、悪いこともしません。無慈悲だっただけです。自分で稼いだ富を自分の好きに楽しんだだけです。彼は何かをしたからではなく、「悪いこと」は何もしていないのに地獄に落とされました。そしてラザリもまた、何かをしたからではなく、「善いこと」は何もしていないのに天国に入れられました。何もしていないことでは二人は同じですが、結果は正反対でした。この違いは、どこから? 「金持ちは無慈悲だったから罰せられた」、…「安っぽい勧善懲悪ドラマ」みたいに説教を終えても十分ですが。
ここでもう一度思い出しましょう。ラザリは乞食、飢えて食を乞う者でした。金持ちは満ち足りた者でした、飢えもせず乞いも求めもしません。おわかりでしょうか。ハリストスはこう教えていることを忘れてはなりません。
「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(マトフェイ5:45)。
「太陽」「雨」、いずれも私たちのいのちに不可欠な神の恵みです。神の愛の贈り物です。これらはすべての者に注がれています。また主はこうも教えます。「求めよ、そうすれば与えられるであろう」(マトフェイ7:7)。神に飢え、神の愛を乞い求める者は、神に受け入れられます。反対に、自己満足し自分で自分を正しい者と見なし、神を求めない者は、神でさえ受け入れたくとも受け入れようがありません。「越えたくても越えられない大きな淵」があるのです。
教会は私たちの救いを「神に義とされる」とか、「神との正しい関係に入れられる」とか言います。それは、神の戒めに何の背きも違反もないこと、もしくは神がそう「見なしてくれる」ことではなく、「神の『愛』との正しい関係に、すなわち交わりに入れられる」ことです。神の愛に対し喜びと感謝で応えられる者へと、変えられることです。ハリストスを信じるとは、神の愛がハリストスというお方を通じて、いわば「全身腫れ物で覆われた」私たちに示されたことを、信じることです。その愛を受け取り、その愛によって生き始めることです。その愛を知った者は、その愛に愛で応えないではおられません。共に生き、出会う人たちへの無関心と無慈悲を、自分に対して許しておけません。神であるのに、人となって、人のためにご自身のいのちを十字架に投げ出されたお方に感謝し、愛するなら、そのお方・愛であるお方に少しでも似る者になりたいと願わずにはおられないからです。
それは私たち弱く罪深い人間には至難のことです。
しかし私たちはもうしくじりを恐れません。主の赦しを、そして主がいつも共にいて助けてくださることを、信じるからです。