マトフェイ伝17:14-23 2024/9/1 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
みなさん!みなさんはご自分の信仰に自信がありますか?
何をいきなり言い出すんだと、思われたかもしれませんが、こんなことをまじめに尋ねられたら、まじめなクリスチャンほど困ってしまいます。「いっこうに不信心で…」などと、とぼける余裕もないでしょう。
しかし、そもそも信仰に自信を持つなどということがあり得るんでしょうか?そして、もしあったとして、それは信仰でしょうか?
ある日、イイススが町に入ると、人だかりの中から一人の男が走り出て、イイススにひれ伏しました。「主よ、わたしの子供をあわれんでください。てんかんで苦しんでいます。お弟子たちにお願いしましたが治せませんでした」。
イイススは、父親に子供を連れて来させ、子供にとりついていた悪霊を、たった一言で追い出しました。子供は長い間苦しんでいた当時としては全く手の打ちようのない病から、解放されました。
物見高い群衆が去った後、弟子たちは「なぜ自分たちには癒せなかったんでしょうか」と訊ねました。イイススは答えました。
「信仰が足らないからだ。よく聞きなさい。もしからし種一粒ほどの信仰があれば、山に向かって『ここからあそこへ移れ』と言えば、移るだろう」。
主に召され、主から「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威」を授けられていた弟子たちは、この父親の願いを前に自信たっぷりでした。
しかし、彼らはしくじりました。
一方父親は、やはりこの出来事を伝えるマルコによれば、「信じます、不信仰なわたしをお助けください!」と叫ぶ、信仰に自信などこれっぱかりも持っていない人物でした。しかし彼は、みずから主の前に願い出て、我が子の救いを得ました。不治の病は治りました。「山は移った」のです。主は、彼の「信じます。不信仰なわたしをおたすけください…」という、支離滅裂でありながらも、正直で切実な願いに「からし種ほどの信仰」を見たのです。
まして、こうして日曜に、朝寝をあきらめ、はるばる教会に集う私たちの「からし種ほどの信仰」を主が育てて下さらないはずはありません。どんなに小さくても、不確かでも、本人には単なる先祖から受け継いだ家の宗教への義務感でしかなくても、神さま・ハリストスにとっては何ものにもかえがたい、大切なご自身への愛の芽生えです。ハリストスが「ああよかった、今日は、よくここへ来てくれた」と堅く抱き取ってくれないはずはありません。私たちの信仰は、体裁よく言い表すことができるような信仰ではなく、むしろ口ごもりがちの信仰です。でも、ハリストスはこの、私たち自身すら気づいていない、私たちの信仰を祝福し「ここに集い続けて、その信仰をもっと大きく育てなさい、わたしの言葉に耳を傾け、わたしの体・ご聖体を受けることは、そのための何よりの『日ごとの糧』なんだよ」と励ましてくれます。
さて最初にみなさんに投げかけた質問、そもそも信仰に自信を持つなどということがあり得るのか?もしあったとして、それは信仰といえるものなのか?への答えはおわかりになったでしょうか。
実は信仰への「自信」というのは、おかしな言葉なのです。…信じているのは「自=自分」であって、ハリストスでも、神でもないからです。私たちはクリスチャンは、肩で風を切り胸を張ってこの世を仕切っている「この世の実力者」たちや、人々から賞賛されるアスリートたちがよく言うように「自分を信じて」いません。ハリストス・神を信じているのです。自分なりの考えや確信ではなく、ハリストスから語りかけられる言葉を信じているのです。自分で稼ぎ出したお金で自分を養っていると思い違いをしているのでなく、神様に養われているんだと信じているのです。ご聖体という神様からのいただく糧を日々食べることで、それを自分自身にしっかり確認するのです。
自分は何ほどの者ではありません。「自信たっぷりの信仰」などあり得ません。信仰は自分を信じることではなく、信じて神を仰ぐことです。アミン