マトフェイ14:22-34 2021/08/22 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
私たちは幼い時から繰り返し「よい子になりなさい」と教えられてきました。あるいは「叱られて」きました。やがて、自分でものを考えられる年齢になると、今度は教えられなくても叱られなくても、自分自身で自分を律していくようになります。たくさん叱られたおかげです。自分の行いや考え、自分のあり方をつねに反省し、少しでも「よい人間になろう」と思います。
しかし、私たちはあまりに長い間、よい人間になるために、叱られたり、反省したり、自分を責めたりし続けてきたために、せっかくハリストスの福音(喜ばしい知らせ)に触れても、その喜びを受け取り損ねて、かえって重荷に重荷を重ねてしまいがちです。本日の福音にもその危険があります。
弟子たちは風の吹きすさぶ真夜中の湖を小舟に乗って向こう岸に向かっていました。舟は逆風に弄ばれ、にっちもさっちも進めません。そこへ黒い影が波の間から舟に近づいてきました。それを見て震え上がった弟子たちに声がかかります。「私だ。恐れるな」。イイススでした。それを聞きペートルは「私も水の上を歩かせて下さい」と主に願い、そろりと水に足を下ろし、水の上を歩き始めました。なんと、歩くことができたのです!しかしペートルは逆巻く波と風に一瞬ひるみ、たちまち水に沈んでしまいました。「主よ、お助けください」と叫ぶペートルの手を主は引き上げ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのだ」と叱りました。弟子たちは「ほんとうに、あなたは神の子です」とひれ伏しました。
「信仰を強く持たないと、このペートルのように、世の荒波に沈んでしまんだ、神を疑わず、信仰をしっかり持とう」。
私たちはまずそう思います。主に信仰の弱さを叱られたペートルと自分を重ね合わせて、反省しちゃうわけです。余りにも長い間「よい子になれ」と叱られ続け、また自分を叱り続けてきた心の癖です。そして説教が追い打ちをかけます。「神を信じて疑うな」。
しかしこの福音は私たちを反省させるために、叱りつけるためにこの日曜日、主の日、主の復活を記憶するよろこびの祝祭で読み上げられるのではありません。そうではなく、ペートルを救いあげ、風を瞬く間に鎮めてしまった主に、「ほんとにあなたは神の子です」とひれ伏した弟子たちの、心踊る驚きを、私たちも喜びをもって分かち合うために読まれたのです。
神の御子が私たちとともに波逆巻く世の海をともに渡ってくださる。水の上を歩き、一瞬にして嵐を鎮めることのできる創造主、神であられるお方が、私たちに親しく寄り添っていてくださっている。このお方は、疑いと不信によって、性懲りもなく繰り返し世の海に溺れる私たちの叫びを聞いて、何度でも引き上げてくださる。この救い主・ハリストスとともに生きる生活がいま始まり、ここにある。福音はそう告げているのです。
それでもなお、今日の福音を、反省のための教訓としか読めないなら、こう申し上げましょう。強い信仰だけがあなたを救うとお考えなら、あなたの信仰はヨブのような信仰でなければなりません。財産を、子供たちを、一瞬にして失っても「私は裸で生まれたのだから、裸でそこへ帰ろう。主が与え、主が取られたのだから」と神に、一言も泣き言を言わないイオフのような完全な信仰です。
そういう信仰を持てますか。持てないからこそ、ハリストスというお方はペートルの喜び、そして私たちの喜びだったのではなかったですか。
「でも神父さん、疑ったら波に呑まれてしまうのでしょう。やっぱり強い信仰を持てと教えられているのでは?」
こうおっしゃるならお尋ねしましょう。あなたは自分が波の上を歩いている、まだ荒波に沈んでいない、そう思っているんですか。…私たちは今もう荒波に飲まれて溺れ死にそうなんです。信仰の弱さを神妙に「反省」してる暇などありません。波間に翻弄されるペートルとともに声を限りに「主よ、助けて」、そう「主憐れめよ」と叫ばねばなりません。…信仰の強さとは、疑わない強さである前にまず、むしろこの求めの激しさ、その深さです。