マトフェイ17:1-9 2024/8/18 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
福音書は、ある日三人のお弟子たちを、文字通り「打った」強烈な光の記憶を伝えています。
イイススに連れられて高い山の頂に立ったとき突然、主のお顔は白く輝き、その衣は光のように白くなりました。
正教会は主のこの変容の姿に、人の救いの極まりを見てきました。人が自らの意志で、神の恵みのうちにとどまり続け、神の恵みを受け取り続けたならば、人に約束されている、人が果てしなく改め造りかえられ変容してゆく、その姿です。
正教会ではよく「人間神化」とか「人が神になる」とか言いますが、これは私たちが人でないもの、たとえば天使に、まして神になることではありません。これはこんな「きわどい表現」を用いてしか言い表せない、いや用いてさえ言い表せない「人が人であり続けながらの変容」が、神の恵みとして与えられることを指しています。聖使徒ペートルはこれを「神の性質に与る者となる(ペートル後1:4)」と言います。たとえて言えば、火に焼かれて赤く、やがて白く輝く鉄のようなものです。どんなに強い光で輝いても、鉄は鉄のまま、黒く冷たい時の鉄と同じです。人も、神の恵みの炎を浴び続けるなら同じように、まったく人であり続けながら神に似る者へと変えられてゆきます。人は神のかたち、神の似姿として創造されました。これは人の使命が、この自らのうちに宿す、神のかたちを少しずつ目に見えるものとしてゆき、限りなく神に似る者へと変容して行くことです。
私は最初にこの変容を神の恵みの中にとどまり続け、神の恵みを受け取り続けるときに人が恵みとして与えられると申しました。
神の恵みの内にとどまり続けるとは何でしょう。独りぼっちで「修行」し「霊的」と言われる神秘体験へ没入してゆくことではありません。ハリストスが集める「教会」という集い、神と人との、人と人との交わり内にあり続けることです。教会は憎しみや争いにまみれた、人が自らの罪で台無しにしてしまったこの世のまっただ中に、神の子ハリストスがご自身の「からだ」としてお立てになり、神・父が聖神を遣わし続ける、神の恵みの世界そのものです。この集いの内にとどまり続け、この集いの内で恵みを受け続けるとき、私たちは少しづつ神に似る者へと変容されてゆきます。これが人間の救いです。
この救い、すなわち人の本来のあり方への回復とさらにその上、人が神から招かれている光栄への限りない飛翔、この一切は神の恵みです。
ただ一つのことを除いて。そのただ一つのこととは、神・ハリストスが私たちへ注いでくださる愛を受け取ろうとする私たち一人一人の自由な意志です。この意志はハリストスの愛をご聖体としていただき、そこで受けたハリストスの愛を私たち互いの内に生かし合おうとすることに具体化されます。だからこそ教会という集いの内に、すなわち神・ハリストスとの交わりと互いの交わりの内にとどまり続けなければなりません。集いも、交わりもそれを成り立たせているのはハリストス神の愛だからです。
「愛はいつまでも絶えることがない(コリンフ前13:8)」とパウェル言います。私たちを「いつまでも絶えることなく」「光栄から光栄へと」(コリンフ後書3:18)変容させるのは、この愛です。神から受け取り、互いに対して注ぎ合う愛です。反対に憎しみは、闇から闇へと私たち人間を落としこみ続けてゆきます。ついに神の愛を受け入れず、隣人と和解せず生涯を終える者が、やがて入れられる「永遠の地獄」とは、この闇に一層の闇を加え続ける「闇から闇への」果てしのない愛の拒絶そのものです。
愛を選ぶのか憎しみを選ぶのか、赦すのか報復するのか、難儀する隣人への親切を選ぶのか無関心に目をそらすのか、孤独を選ぶのか交わりを選ぶのか、…ここに、私たちが「光栄から光栄へ」の変容に与り始めるか否かがかかっています。一切が神の恵みでありながら、一切がこの私たち一人一人の「愛の決断」にかかっているのです。