マトフェイ9:27-35 2024/08/11 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「ダヴィドの子イイススよ、憐れんでください」。主はそう叫びながらまとわりついてくる二人の盲人の目に触れ、彼らに光を回復しました。…この二人は最初に何を見たでしょう。…飛び込んできた光の、そのまぶしさが和らぎ、彼らに次第にはっきりと見えてきたのは、二人に温かい眼差しを向けるイイススそして、目を開かれたお互いでした。
闇の内を手探りでさまよいながら、「憐れんでください」とてんでに叫ぶ二人の盲人の姿、それは私たち人間の現実でもあります。私たちは、「苦しい」とうめき、「悲しい」と泣き、「もうがまんできない」と怒ります。そしてみんな、その心の目は「自分の苦しみ」に釘付けにされています。こんなに苦しいのに誰もその苦しみをわかってくれない、誰も助けてくれない、反対にみんなが自分をいじめる、自分を無視する…そう私たちは言いつのります。
人は一人で生きているから孤独なのではありません。人は人と共に生きているから孤独なのです。
人は一人で生きていかなければならないから苦しむのではありません。人は人と共に生きているから苦しむのです。
本日の福音、主イイススが出会ったのは「二人の盲人」でした。ハリストス・神が目の当たりにしているのは、二人でいるのに、二人でいることを葛藤や闘争としか受けとめられず、その緊張のはてに、それぞれが自分にしか関心を寄せられなくなった人間の現実です。
創世記の冒頭、神さまは人を「神のかたちに、男と女に創造」しました。最初ひとりぼっちだったアダムに、エヴァを創って寄り添わせました。その時、神はこう言いました。「人が一人でいるのはよくない」。人と人が共に生きること、その交わりほど「よいこと」はないのです。しかしこの「よいこと」が、よいものではなくなってしまっている。アダムとエヴァが神の愛を離れた結果、互いを結ぶ絆の結び目を失い、人と人との交わりは愛の場ではなく、闘いの場、憎しみの場、さもなくば互いの冷たい無関心の場となってしまいました。人は交わりの場で傷つき続け、ついに病的な自己中心性の中で、互いの姿が見えなくなってしまっています。「二人の盲人」のように。
そんな闇を生きる私たちに、光が射し込みました。
ハリストスに目が開かれ、光が射し込んできた時、彼らはまず主を見いだしました、そして互いを見いだしました。主・神であるお方ハリストスと共に、互いがもう一度「交わり」をよきものとして生き始めます。二人の盲人を憐れみ孤独から救い出した、このハリストスを信じて洗礼を受けた私たちにも同じことが始まったのです。私たちは互いの内に互いの苦しみを見いだし合い、そしてついに互いの間に人を孤独から救い出すことのできる唯一のお方、ハリストス・神の愛であるお方がいてくださることを見いだします。「ハリストス我等のうちにあり、Christ is in our midst! 」。これが教会です。ハリストスの体です。
しかしそれでも、私たち弱い者どうし、たくさんのしくじりを犯すでしょう。たくさん苦しみが襲いかかってくるでしょう。たくさんの悲しみに泣くでしょう。しかし、神さまがよきものとして与えた「交わり」を目に見えるものとする礼拝、そう聖体礼儀に、すなわち主「ハリストスの体」に集い、それを聖体血、パンとぶどう酒として分かち合うとき、何ものにも代え難い交わりの喜びが、私たちを立ち上がらせてくれます。その喜びが信仰を励まし、希望を与え、互いの愛へと促してくれます。教会の人間関係の現実の中ではこれは、…信じにくいかもしれない、信じられないかも知れない、絵空事としか思えないかも知れない、…でも信じましょう。「既に真の光を見、(We have already seen the true light)」(聖体礼儀の聖歌から)たと歌う私たちなんですから。