マトフェイ9:1-8 2020/07/19 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススのもとに、中風で動けない病人が、床に横たえられたまま人々に担ぎ込まれました。主は彼らのご自身への信仰を見て、病人に告げました。「しっかりせよ。あなたの罪は赦された」。そしてその赦しが、口先だけでないことを示すため「起きなさい、床を取り上げて、家に帰りなさい」と命じました。病人は立ち上がり、歩み出しました。
罪の赦しはここではっきり癒しと結びつけて示されています。罪の赦しは単なる赦免の宣告、罪状書きの破棄ではありません。
ハリストスは本日の福音で、まず「あなたの罪は赦された」と一方的に宣告します。人々は一瞬「あれっ?」と戸惑ったに違いありません。人々が願ったのは「病気の癒し」であって「罪の赦し」ではないのですから。しかもそれは、まったく一方的な宣告です。善行への報いでも、悔い改めへの褒美でもありません。
この宣告は決してこの中風の人にだけ向けられたものではありません。この福音が読まれるたびに、この一方的な宣告は世界中に響き渡ります。仮に私たちが神に背を向け、この世の生き方にどっぷり浸かり、自分でよろったかたい殻に閉じこもり続けても、主のこの宣告は決して撤回されません。主の十字架は揺るぎなく立ち続け、そこにある神の愛はまったくの恵みとして、雨が良い畑にも悪い畑にも降り注ぐように、「正しい者にも悪い者にも」惜しみなく注がれます。私たちはまさにありのままの私、弱く、あさましく、卑怯でねじくれたこの私のまま、神に愛されます。そんな私たちに主は罪の赦しを告げます。たとえ私自身が「こんな自分が、赦されるわけがない」と決めつけていても、ハリストス・神は決してうなづきません。
しかしそれは決して「これからも、そのありのままのおまえの姿でけっこうだ」という「赦し」ではありません。神・ハリストスは私たちの「ありのままの姿」が悲しい、愛が大きければ大きいほど、愛する者の背きへの、さまよいへの、孤独への、苦悩への悲しみはいっそう深い!神の愛は「途方もなく」大きい、ある聖師父は「狂おしい愛」とまで言い切ります。だからその悲しみもまた途方もなく深い、「狂おしい悲しみ」です。この「狂おしい」愛と悲しみ、神の「情念」はついに、神と人との境を超えてしまいます。神が人となります。そのお方ハリストスは人の苦しみの一切を分かち合ってくださいます。「お前たちだけを苦しませてはおけない!」。私たちの救いのために主は、決して罪などないお方なのに、罪による苦悩とその悲しみを分かち合って下さいます。主はご受難の前夜、ゲッセマネの園で怯え、悶え、苦しみの果てに血の滴りのように汗をぽたぽたと地面に落としました。ついにあげられた十字架上で「神よ、どうして私を見捨てられるのですか」と神にさえ捨てられた悲しみを叫びました。
「あなたの罪は赦された」と告げているのはこのお方です。「起きなさい」と手をさしだしておられるのはこのお方です。――私たちを引き起こし引き上げて下さるのはこのお方です。人と神との交わり、「おまえとわたしの交わり」を取り戻したいと、…まず最初に望まれたのは、このお方、神ハリストスです。