マトフェイ18:23-35 2024/09/08 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
決算の時がきたので王さまは、ひとりの僕(しもべ)に借金の返済を求めました。一万タラントの借金です。気の遠くなるような莫大な金額です。一人の労働者の16万年分の賃金です。まさに天文学的、…返せるはずがありません。人間が、元祖アダムとエヴァ以来、深め続けてきた神に対する罪の重さを、イイススはこの莫大な借金で示したのです。人はもはや、自分自身の力でこの罪を償うことはできません。王さまの僕ももちろん返済できません。そこで王さまは、僕の財産と、僕自身とその妻子を奴隷として売ってでも返せと命じました。これは返せっこないあの膨大な負債の担保としては、えらく安い・・・。しかし家族を愛するこの僕には、耐えがたい条件です。僕はひれ伏して返済の延期を願います。できっこないことを、いわば空約束してひれ伏す僕に、王さまはその不誠実さへの怒りより、むしろ憐れみを催しました。そして彼をゆるし、なんと負債をすべて免除してやったのです。
さて、赦された僕はどうしたでしょう。
彼は「やれやれ助かった」と王さまのもとから帰る途中、百デナリという、王さまからゆるしてもらった額に較べれば無に等しいお金を貸していた友人に出会いました。ところが彼は、友人の首を絞めあげて、「借金返せ」と迫ったのです。友人がひれ伏して頼んでもゆるさず、牢屋に入れてしまいました。人をゆるさず、人を「自分はゆるされていない」という思いの苦しみに閉じこめ、そこから出られなくしてしまっている、「ゆるさない」私たちのむごさです。王さまはそれを聞いて、「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」と怒り…ついに彼を牢屋にぶち込んでしまいました。
ドラマはここにめでたく私たちの大好きな勧善懲悪の大団円を迎えました。
しかし、もし私たちが、この結末にやんやの拍手を送るなら、それは神をまたさらに悲しませてしまうでしょう。そんな私たちは結局、このむごい僕と同じように、神の愛をほんとうにはわかっていないからです。このむごい僕を懲らしめた王さまに拍手を送るばかりで、王さまの、そう神さまの悲しみがわからないからです。自分の罪深さをすっかり忘れて、途方もなく寛大な神さまのゆるしの恵みが、十字架にご自身を献げたイイススとして確かな現実としてもたらされたのに、…人を裁き、正義の味方気分で、心の内で「悪いやつ」に「葵の紋章」、いや「十字架の紋章」のついた印籠を突きつけ、ざまあみろと、吐き捨てる私たちです。
ハリストスはたとえ話をこう結びます。
「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまた、あなたがたに対してそうするであろう」。
身近な隣人をゆるすことが、神にゆるされる「条件」であると教えているように聞こえますが、そうではありません。むしろ、神の無際限のゆるしと愛に心を開き、喜びと感謝の内にそれを受け入れ、少しずつではあっても隣人をゆるせるようになってゆくことこそが、神に「ゆるし」そのものなのです。「牢屋に入れられた」と、イイススはたとえ話で語ります。しかし王さまが彼を牢屋に入れたのではありません。人をゆるさない彼が、すなわち私たちが、神の愛を受け入れず、またゆるしあえない私たちへの神の悲しみを理解せず、自らが牢屋に閉じこもってしまうのです。イイススは十字架に自分を献げて神の怒りをなだめたのではありません。むしろ、そこにある私たちへのとほうもない愛によって、神の悲しみをなだめたと言い換えるべきでしょう。
「ゆるさないなら、ゆるされない」というイイススのお言葉は、信仰の弱い私たちを慮って、ゆるす勇気を、また神にゆるされる喜びを、私たちに与えようという主の愛の励ましです。