マトフェイ8:5-13 2024/07/21 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
重い病気や、思いもよらない苦難に見舞われたとき、私たちはイイススに「治してください」、「苦難から救い出してください」と祈ります。自分のことばかりではありません、むしろ愛する者のためであるときの方がその祈りはいっそう切実です。「私はどうなってもいいから、この子の命だけは助けてください」…。
そんな真剣な祈りによっていやされり、苦難が去った無数の実例を教会は伝えています。
しかしそんなよい結果には終わらなかった悲しい現実も、たくさん知っています。そちらの方がいっそう現実的でしょう。では…
「求めなさい、そうすれば与えられる」。
「もし、からしだね一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこへ移れ』と言えば、移るだろう」。
このような主の御言葉は当てにならないのでしょうか。
それとも祈る者の信仰がまだまだ足らなかったからなのでしょうか、祈りの真剣さが不足していたからなのでしょうか。お医者さんもハッキリと「希望はありません」と告げた病床の我が子のために、連れ合いのために、魂の底から、自分の「いのち」の一番深いところから、福音が伝える「あの父親」同様に「お助けください、信じます、この不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)と必死で祈るその祈りが、真剣さに欠けていたなんて、誰が言えるでしょう。
信仰が真剣であればあるほど切実なものとなる、この難問にどう答えればよいのか、本日の福音は一つのヒントをあたえてくれます。
一人の百夫長、ローマ軍百人隊の隊長が、病気で倒れた家来のために、イイススのもとに出向いて行き、癒しを求めました。
「すぐに行ってあげよう」と言う主を押しとどめ、百夫長は言いました。
「主よ、私の家にあなたをお入れする資格は、私にはありません。ただ、お言葉をいただければ、僕は治ります。一言命ずれば部下は誰でも私に従うように、あなたはいのちを司るお方です」。
イイススはその信仰をほめ、そして命じます。
「行け、あなたの信じた通りになるように」。
福音書はこう伝えます。
「すると、ちょうどその時に、僕はいやされた」。
「ちょうど、その時に、いやされた」。味わうべき一句です。
ハリストスを、いのちの主、いのちを司る唯一の神と信じて祈るとき、まさにその時に奇跡が起きるのです。お金しか、この世の力しか、世の快楽や世渡りの知恵しか、そして何よりも「自分」しか信じない、人の病んだ在り方、「いのち」のゆがみそのものが、いやされるのです。このような癒しこそが何よりも決定的な癒しです。私たち自身の力では、どんなに努力しても、この病んだ生き方はいやせず、「いのち」のゆがみはまっすぐにはできません。しかし私たちがこれまで頼りにし、当てにしてきた一切が何の力もないことを知って、主イイスス・ハリストスこそを「いのちの主」と信じたとき、「ちょうど、その時に」いやされるのです。
身体の病気はたとえ一度は治っても、やがていつかは人は死にます。しかしこの人の在り方そのものの癒し、ハリストスをいのちの主として信じ、そこにいのちの一切が差し向けられてゆく「信仰」という癒しは、それを離れない限り私たちを、身体的な死をこえた「永遠のいのち」に携えてゆきます。
そして最後にひとこと。百夫長は願いました。「ただお言葉をください」。
神のことばが肉体となり、ご自身を「取って食べなさい」と差し出しています。
私たちがなすべきことは、はっきりしていますね。