マトフェイ4:18-23 2016/07/03 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
ペトル、アンドレイ、イアコフ、イオアンら、イイススの最初のお弟子たちはみな漁師でした。律法学者という聖書(旧約聖書)や宗教的戒律の専門家でもなく、まして当時もっともハイカラだったギリシャ・ローマ文明の教養を持つ者でもありませんでした。特に知的な人たちではなかったのです。
では学問はなくても、かわりに勇気や人徳を持つ人々だったかというと、これも違いました。主イイススがユダヤ人たちに逮捕されたとき、弟子たちは皆、主を置き去りにして逃げ出してしまいました。恐る恐るイイススが尋問されている所へ戻ってきたペートルも、そこにいた人々から「おまえ、あの男の弟子だろ?」と尋ねられると、震え上がり、「違う、めっそうもない」と嘘をついてしまいました。またイアコフやイオアンはすぐにカッとなる性格で、主から「雷の子」とあだ名を付けられました。また主がイスラエルの王となったら誰が一番えらい家来になるかで、十二人が大喧嘩をして、主にたしなめられたこともあります。どうやら人格円満な人など一人もいなかったようです。
このように主は、エリートでもなく人格者でもない普通の人、ありふれた漁師を、「わたしについてきなさい。あなたがたを人間を取る漁師にしてあげようと」キッパリとお召しになったのです。
なぜでしょう?なぜこんな人たちを選んだのでしょう。やがて立派な弟子になる隠れた素質を見抜いたから?…そうではありません。主は教養も知恵も勇気も人徳も彼らが持たないからこそ彼らを選んだのです。人は自分の持っているものによってではなく、ハリストスを通じて神様からいただく恵みによって変えられ、高められていくことの証しするために、あえて彼らを選んだのです。
彼らはの日に聖神の恵みを受け、主の復活を力強く証しする証人へと変えられ、世界中に命がけで福音を伝え、多くの人々を「新たなる神の民」の一員として「ハリストスの体」教会へ集めました。まさに「人間を取る漁師」です。しかし人々を動かしたのは彼らが伝える福音のメッセージだけではありませんでした。人々は特別な知識も能力も何もない、かつては自分勝手で臆病だった「普通の人」が今やハリストスの知恵に溢れ、愛に溢れ、生気に溢れ、力に溢れているという事実に神の救いの確かさを見たのです。「ほんとうに神は人を変えるんだ、人を救うんだ」と。主の復活という驚くべき神のわざを、普通の人が普通の人のまま、力に溢れて伝えるからこそ耳を傾けたのです。自分たちと同じ俗気に溢れ、疑い深かった彼らが言うのだから、「もしや」と。
伝道とは学問のある人が難しい本を書いたり講演会をすることではありません。使徒たちと同じ普通の人間である私たち一人一人が親切や思いやりを、困難に負けないしなやかな強さを、悔しさや憎しみを克服して赦しあう寛容さを、自分のものとしてではなく神様からいただいたものとして隣人に示すこと、また使徒たちが証した主の復活を、私たち自身が死んだような生き方からよみがえって「生きてみせる」ことです。
弟子たちは主に集められ、主と共に三年間を過ごし、そして主が天にあげられた日「行って万民に教えを伝えよ」とそれぞれの伝道の場へと派遣されました。私たちは日曜ごとに主のお体に集い、その礼拝の輝きの中で神の国の味わいを分かち合います。そして「平安にして出ずべし」と、ここで体験した一切を、ここで味わった平安、すなわち神に受けとられ互いに赦しあう喜びを携えて、あなた自身の生活の場、すなわり家庭や、職場や、学校、また日々出会う人々との交わりの場に戻ってゆけと命じられます、使徒たちと同様に「派遣」されるのです。