マトフェイ10:32-33 37-38 19:27-30 20017/06/11 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音、イイススはこう言いきります。
「わたしよりも、父または母を、むすこや娘を愛する者は私にふさわしくない」。
家族、…それを守るためになら、いのちを捨てても惜しくはない家族たちよりも、私を愛さないなら、「わたしにふさわしくない」と言います。
それは「家族も大切だけれど、私の方がもっと大切だよ、あなたの家族との毎日の楽しい生活も、神であるわたしあってのもの、優先順位を間違えてはいけない」と優しく諭しているのではありません。そんな生やさしいものではない。主はこうも言うのです。
「わたしが来たのは人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲違いさせるためである」。
家族への敵対も辞さない、ハリストスへの徹底した愛と忠実さこそが「わたしにふさわしい」と言っているのです。本日の福音が次のような恐ろしい言葉で始まったことを思い出しましょう。
「だから人の前でわたしを受け入れる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受け入れるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天の父の前で拒むであろう」。
「そんな者は、わたしにふさわしくない、そんな者は知らない。ここから消え失せろ!」と言うのです。
たいへん厳しい言葉です。ハリストスが求めるこの「ふさわしさ」を自分は備えていると思える人は、おそらく一人もいません。どうやって、この「ついてけない」ハリストスについて行けばよいのでしょう。
それを考えるときに、思い出してほしいことがあります。聖体礼儀の領聖の直前、司祭は至聖所から「聖なるものは聖なる人に」と呼びかけます。聖なるもの、主の聖体血であるパンとぶどう酒です。この聖なるものは、聖なる人にこそ「ふさわしい」というのです。聖使徒パウェルは「ふさわしくないままで」領聖する者は主の体と血を冒涜し、それによって自分に「裁きを招く」と言っています。私たちは「聖なるはただ一人、主なるはただ一人、神父の光栄を顕すイイスス・ハリストスなり、アミン」と、「それにふさわしい者など誰一人いません」と応じます。自分の罪を神の前に悔いることさえまともにできない私たちが、領聖にふさわしい「聖なる人」でありようはずがありません。
しかし主はこう言いました。「人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内にいのちはない」と。そう、領聖しなければいのちはない、滅びます。しかし、ふさわしくないままで領聖するならやはり滅びます。そして、私たちは知っています。聖なるもの・ご聖体にふさわしいのはハリストスただお一人です。私たち人はみな、ふさわしく領聖できません。私たちは立ち往生です。
しかしその時です、ハリストスは「神をおそれる心と信とをもって近づき来たれ」と私たちを領聖に招いてくれるんです。ハリストスは立ち往生する私たちが直面しているジレンマをよくご承知なんです。その上でなお「このパンを食らえ、この酒を飲め、これはあなたたちの罪の赦しと永遠のいのちだ、さあ取って食べよ」と命じます。私たちは尊体血に向かって歩み出ます。
私たちは最後には、主についてゆくことを止めません。たとえトボトボであれ、コソコソであれ、転びまろびつであれ主の後からついて行きます。
「イイスス、こんなみっともない姿でもあなたについて行くのは、あなたを見失ったらもう生きられないからです。自分がどんな人間であるかは、私よりもっと、イイスス、あなたがよくご存じです」
そう祈り続けて生きる、それこそがハリストスへのまことのふさわしさです。
「人の前でわたしを拒む者を、わたしも天の父の前で拒むだろう」。そうハッキリおっしゃったハリストスは、実は拒みませんでした。主の一番弟子ペートル、受難の日の夜、捕らえられたイイススの後からこそこそついて行って、「おまえもイイススの仲間だろう」と見とがめられると、ふるえあがって「知らない、そんな人知らない」と主を拒んでしまったペートルをイイススは赦しました。三度、ご自身を知らないと言ったペートルに、三度「私を愛するか」と問い「愛します」と三度答えさせて、その傷ついた心を癒しました。本日記憶される「衆聖人」・すべての聖人たちもみな主のこの愛にふれて、主について行った人たちです。