聖使徒行実2:1-11 2021/6/20 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
理解できない出来事や物事、また人物に出会った時、どんな気持ちになりますか。…「理解できない」、自分の頭の中に作り上げてきた整理棚の引き出しのどこにファイルしたらよいか全く手がかりがなくて、お手上げ…。
そう、人はそんな時まずあっけにとられます。次に不安になり、おびえすら感じる時もあります。ついには耐えきれなくなり、無理やり頭からそれを追い出してしまうか、反対に何かラベルを貼って頭の中のどこかの引き出しに無理矢理押し込めて、ひとまず安心。「あの人はこういう人なのよ」。
でも、何とか格好はついたけれど、ここには私たちの毎日をキラキラ輝かせてくれる何のトキメキもありません。
しかし、もし「理解できない」物事や、人物に出会った時、まず新鮮な驚きに打たれ、自分が今まで親しんできた世界を超えた新しい世界が見えてくるかも知れないと心を躍らせ、古い見方を壊して、差し出された新しい世界にわくわくしながら入ってゆける、そんな心のしなやかさを、身につけられたらどんなに素晴らしいでしょう。
これを可能にしてくれるのが聖神です。
ハリストスはお弟子たちに親しくご自身のなしとげようとされる救いについてお話しになりました。しかしお弟子たちは全く理解できず、あっけにとられ、不安におびえ始めます。それを見て主は「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」と力づけました。この真理の御霊、すなわち聖神が、五旬祭の朝、集まって祈っていたお弟子たちの上に降ったのです。弟子たちは三年間、イイススというお方に体験してきた一切を、福音、喜ばしい知らせとして一挙に悟りました。神はついに救い主・ハリストスを遣わして下さった。
そしてその同じ聖神は今もこの教会という集いに溢れ続けています。一人一人が洗礼を受ける時、信徒が集い祈りご聖体を分かち合う時、聖神がそこにいる者を満たします。
私たちは思い込みや決めつけを次々に壊してゆき、この世界の真の豊かな意味、共に生きる人々の真の姿へと限りなく交わりを深めてゆく、そして人の理解を最も超えているもの、すなわち「神としか呼びようのないお方」へと近づいていく力を、その「神としか呼びようのないお方」そのものから与えられるのです。
「理解できない」ものに出会った時こそ、そのいただいた力を存分に生かす機会です。理解できないものとは未知のものです。私たちがまだ体験していないものです。私たちが今まで気づかなかった現実です。未知のものが溢れる世界の、人間の、そしていのちの、ため息でしか応えようのないこの広さや深さ、そして限りない新しさに、日々一刻一刻驚きの声を上げ、それを讃え続けることができるなら、それこそ、神が私たちに与えた最高の喜びであり贈り物です。みな、使徒たちが受けた同じ聖神の働きです。
しかし注がれた聖神も、もし私たちがそれに気づかず、それに心を開かず、古い心の習慣を私たち自身が脱ぎ捨てようとしないなら、働きません。強い者も自分の強さに気づかないなら、部屋の隅から走り出たゴキブリ一匹におびえます。私たちクリスチャンも聖神が私たちに与えてくれる恵みの途方もない大きさと力を知らねばなりません。
知恵鈍く、小心で、権力欲もいっぱい持っていた弟子たちが、聖神を受けるや、しなやかな知恵とたぐいまれな自己放棄の徹底さを持って、世界各地に福音を伝えに出て行ったことをもう一度思い起こしましょう。私たちクリスチャンを日々新たにしてくれる、同じ聖神です。