イオアン9:1-38 2024/06/09 大阪教会
ハリストス復活!
ある日イイススは道ばたに座って物乞いをしていた生まれつきの盲人に目をとめ、彼の目を開いてやりました。本日の福音です。
生まれつき目が見えないとはどういうことでしょうか。事故や病気で視力を失くしたのではありません。生まれたときから、視力でしか受け取れない感覚と無縁なまま育ってきたのです。光も色彩もどんなものか見当すらつかない。そもそも「見える」ことがどんなことかわからない。ただ「光」や「色」という言葉は聞いて知っている。この世界には他の人は知っているけれど自分は知らない何かが、あるらしい……。この生まれつきの盲人のつらさは、見えないことで生じる不自由さによるものではなく、「見える」ことがどんなことかわからない悲しみです。他のみんなが話している、「光」や「色」や「輝き」と言われるもの、「澄み切った空」と言われ、「色とりどりの花々」と言われるもの、そういうものの体験とは自分は一生無縁と定められていることへの、悲しみです。
この生まれつきの盲人に、ハリストスが視力を与えました。今まで彼がまったく知らなかった、しかしその存在は予感し、もしできることならそれに触れたいと望んでいた新しい体験の世界に、彼は突然入れられたのです。
私たちハリストスを信じる者も同じです、主は、まったく新しい体験、今まで見えていなかった、しかしその存在を予感し、それに憧れ、同時にそれが決してかなわぬことへの悲しみにうちひしがれてきた、その全く新しい体験と世界を開いてくれました。あふれる光の中を、はてしなく神に向かって飛び翔けり、はてしなく昇ってゆくいのちに道を開いてくれました。…それが見え始めました。しかしまだ見えていないものもあるはずです。その次から次とビジョンが開かれてゆくに違いない「まだ見えていない世界」への心躍る憧れが、教会に溢れる聖神に翼を与えられ、さらなる高さへと翔け上がって行くのです。
ハリストスによって新しい視力を与えられるまで、私たちは何を見ても、それをより小さく、より浅く、より貧しく、より悪く見てゆくという悪循環の中にいました。私たちは怯えて縮こまり、敵意に鎧われて、世界を、とりわけ共に生きねばならない人々を見ていました。しかしハリストスによって目が開かれた時、その悪循環が逆転しました。この世界にたくさんの神のしるしが見えてきました。共に生きねばならない、しかし「な人たち」と見下げてきた人々の中にたくさんの「神のかたち」が見えてきました。世界を見る私たちの視線は、神さまからの贈り物、神さまの愛のしるしとしての世界に焦点を結び始めました。出会う一人ひとりの人々が秘めている宝物、そう「ダイアモンド」への予感が、そして自分に注がれる愛はまっすぐに受け入れていいんだという希望が、よみがえってきました。
本日の福音の直後、主は、かたくななファリサイ人たちにこう言います。
「もし、あなたたちが盲人であったなら、罪はなかっただろう。しかし今、あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」。
もし、彼らが、今見えているものだけが全てであると頑なに思い込まず、今見えているものは「今、見えているもの」に過ぎず、この世界の全てではない、神が人に与えたもの、人に与えようと祝福しているものの全てではないことを、心から受け入れたなら、「あなたたちはどんなに自由なものへと生まれ変われるであろう」。そう言うのです。
自分が盲目であることを知り、いまは見えていないものがあると認めること、それは少しも屈辱ではありません。むしろそれは、まだ見えていないけれど確かにあり、そこへと聖なる三者が導いてくださる、よみがえりの世界・神の国の予感に喜びふるえることです。 ハリストス復活!