イオアン 4:5-42 2024/06/02 大阪教会
ハリストス復活!
カンカン照りの真っ昼間、人気のない井戸のほとりでイイススは、水汲みにや ってきた一人の女に「水を一杯飲ませてくれないか」と頼みました。女は尋ねま した 「どうしてユダヤ人のあなたは仲の悪いサマリア人の私に水をくれなんて 。 頼むの? 。イイススは「私が誰だかわかってれば、あなたの方から私に『生け 」 る水』をくださいと、頼んでくるはずだ」と答えました 「生ける水」とは文字 。 通りにはこんこんとわき出す泉や、さらさら流れる清流の水です。井戸の底にど ろりと淀んでいるような水ではありません。女は「冗談じゃない、そんな水、ど こでどうやって手に入れるのよ」と鼻で笑います。
そこでイイススは厳かに女に告げました。
「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、 いつまでも渇かないばかりか、その水は、その人のうちで泉となり、永遠のいの ちにいたる水がわきあがるのだ 。」
女はイイススが何を言いたいのかわかりません。女は言い返しました。
「じゃあ、くださいな、その水を。そんな水があるなら、毎日こうやってかん かん照りの真っ昼間に、えらい思いをして水汲みに来なくてもすむもの 。」
その時でした、イイススが突然話題を転じたのは 「おまえの夫をここに呼ん 。 でおいで 。」
不意を突かれて女は、ついはずみでホントのことを言ってしまいました。「夫 なんかいないわよ 。」
イイススはここぞとばかりにたたみかけました 「そうだろう。あなたは五人 。 の夫を次から次と渡り歩いてきた。そのうえ今一緒に暮らしている男とは、夫婦 とも言えない関係だものね 。」
イイススのこのむごい言葉に女はついに悟りました。自分がどれほど的はずれ な人生をさまよってきたかを一瞬にして知り、言葉を失いました。的はずれ、す – 2 – なわち「罪」です。ギリシャ語でアマルティア、本来「放った矢が的をはずす」 という意味です。私たちだって、そうだったのではありませんか。的はずれなも のに次々と夢中になってきた人生、この世が差し出すあてにならない、まやかし の約束や、安っぽい慰めに次々と依りかかってきた人生です。それはある時は異 性であり、ある時は酒やごちそう、ある時は金や名誉、ある時は旅行や趣味、そ してある時は怪しげな「宗教」でした。飲んではまた渇き、渇いては飲み、やが てほどなくまた渇き、…きりのない繰り返しにやがて疲れ果て、自分はいったい 何をしてきたんだろうという索漠たる思いに座り込んでしまうだけの人生です。
女は この自分の 的はずれさ を 罪を イイススに突きつけられたのです 。
だからこそ女は次にイイススにこう尋ねました。
「私はどこで礼拝すればいいでしょう 。すなわち、どこでこの私の罪を贖う 」 献げものを献げたらよいのでしょう。私たちサマリヤ人たちが昔からしてきたよ うにこの山ででしょうか。それともあなたたちが言うようにエルサレムの神殿で でしょうか。
この問いへ、イイススはきっぱり答えます。
「 どちらでもない 今まさに 霊とまこととをもって礼拝するときが来ている」。
まったく新しい礼拝の時代、人々がハリストスのみことばを導きとし、聖神の 恵みに促され、力づけられ、愛の交わりの内に生きる時代。もう礼拝は神殿にだ け閉じこめられてはいません。聖なる時と場所に特別の体験として隔てられてい ません。ハリストスのみことばと聖神によって、すなわち「霊とまこととをもっ て」生きる、その生き方そのものが礼拝となる時代が始まったという宣言です。 ハリストスによって始まったその新しい生き方を生きるとき、私たちはついに的 のど真ん中を射抜きます。永遠のいのちにいたる水がわき上がる泉を掘り当てま す。