イオアン9:1-31 2024/5/26 大阪教会
ハリストス復活!
「なおりたいのか」
水が動くとき最初に池に入ればどんな病気でも癒されると信じられていたベツセダの池のほとりへ、奇跡を待って、三十八年間毎朝いざり出ていた男に、主は問いかけました。
主イイススの問いには「あなたは病気を口実に、自分の足で立って歩む骨折りから逃げてはいないか。なおりたいという、ほんとうののぞみと意志を持っているか」という、人をその崖っぷちにまで追い詰める「つきつめ」が潜んでいます。この「つきつめ」は今も、私たち一人ひとりに問われ続けています。
「一度、完全に死んだ人が、まぎれもなく肉体をもってよみがえった」。
それをイイススに起きたこととして私たちは信じ、復活祭で祝い、この世に宣言します。歴史的事実としてそんなことがあり得たのか、と不毛な議論をしても仕方がありません。クリスチャンは信じられようが信じられまいが、それを信じる生き方を、ある日、自らに引き受けたのです。
しかしその時、私たちを信じることへ駆り立てた根本的な関心は、誤解を恐れずに言えば「イイススの復活が歴史的事実であるかどうか」、「世の終わりに全ての死者が復活するかどうか」などではありませんでした。わたしたちもまた、今日の福音の主人公と同様に、「なおりたいか」と主イイススにに追い詰められたのではなかったでしょうか。この「崖っぷち」に追い込まれたとき、私たちには「イイススの復活は事実だったか」などという悠長な問いを自分に問うていたのではありませんでした。俺は「ほんとうに直りたいか?」だったはずです。
その時、私たちには、この自分にはよみがえりが可能か、この弱く、罪に傷ついた「わたし」が「今生きる」ここでのよみがえり、新しい歩み出しが可能かということにしか関心は無かったはずです。十字架を負うハリストスに、それぞれの十字架をとって従うなら、それは「できる」と信じ、その信仰に人生を引き渡したのが私たちです…、であったはずです。
復活祭、その輝きのなかで「ハリストス復活!」と呼び交わすとき、私たちは忘れかけていた、その時の、その崖っぷちでの、のぞみと決意を思い起こします。そして「できる」を取り戻します。イイススというお方への希望を、この「ハリストス復活」「実に復活」と呼び交わし合う交わりの内に、確かめ合います。
ハリストス復活!