マルコ15:43-16:8 2024/05/19 大阪教会
ハリストス復活!
葬りの香料を携えて主イイススの墓に急いだ主の女弟子たちが見つけたのは、「もぬけのから」のお墓でした。そこにはイイススの代わりに、真っ白な衣を着た天使がいました。天使はこう言いました。
「イイススはよみがえって、ここにはいない」。
私たちにとっても、女弟子たちと同様、墓だった場所が主のよみがえりの宣言を聞く場所となります。墓だった場所、私たちがそこで、死へのおびえに閉じこめられ、光りを見失い、希望を断たれ、人生を死で一切が終わるまでの、何の意味もない重苦しい労苦とみなして、空騒ぎに心を麻痺させて生きていくほかない、文字通り死んだようにしか生きられなかった「墓場」…、すなわち私たちの日常、「この世」が、主のよみがえりの宣言を聞き、そのよみがえりを生きる場へと変えられました。
以前と同じ単調な生活、家族や友人との平凡な毎日、かわりばえのしない職場や学校、見慣れた景色、住み慣れた町並み…、その退屈さも、そこで耐えなければならない労苦も、何も変わりません。しかしすべてが変わりました。何も変わらないかのようにしか見えないすべてが、ハリストスのよみがえりのいのちを自分自身のよみがえりとして知り、感謝し、讃える場、そのよみがえりのいのちを生き、さらに人々に伝える場へと変えられました。私たち一人一人が否応なく関わるあらゆる生活の現実が、ハリストスを通じて私たちを再びそのいのちへと迎えている神さまとの交わりの場、言いかえれば礼拝の場へと変えられました。
イイススは、「飲んでもいつまでも渇くことのない水」が欲しいと求めたサマリヤの女に、こう言いました。
「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたがこの山でも、またエルサレムでもないところで、父を礼拝するときが来る」(イオアン4:21)。
その言葉は、あらゆる生活の場が、人が死んだようにしか生きない場、すなわち墓場から、主のよみがえり、そこに溢れる恵みを、私たち自身のよみがえりとして目に見えるようにしようと生きる場へと変わったとき実現しました。
特定の聖なる場所、特定の聖なる時の中に閉じこめられていた礼拝は、この世全体へと解き放たれ、ついに古い「宗教」は克服され、かわりに「いのち」が現れました。人と神の間に立ちはだかり、人をその戒めで押しつぶし腐らせる古い「宗教」は克服され、生きることのあらゆる場を、生きることのすべてを、神との交わりの場、その交わりの現実へと変えてゆく「いのち」が現れました。
女弟子たちに天使がこう付け加えたことを、思い起こしましょう。
「(よみがえった)イイススは、あなたがたより先にガリラヤへ行く。…あなたたちはそこで(主に)会うことができるだろう」。
ガリラヤは、弟子たちが主に従い町々村々を巡るようになる以前の、彼らの日々の生活の場でした。 弟子たちはそこに帰ってまた漁をはじめました。そしてそこで復活の主と出会いました。私たちもまた、せわしないオフィス、機械がうなる工場、子供たちにランドセルを押しつけ大あわてで送り出し、洗濯に掃除に、買い物に炊事に明け暮れる毎日に戻ります、…その「私たちのガリラヤ」で、よみがえった主は待っています。