エジプトのマリア主日 マルコ10:32-45 2024/04/21 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである」。本日の福音の締めくくり。
主・イイススはエルサレムへ向かう道で弟子たちに、ご自身がやがて捕えられ、ローマ人たちに引き渡され、「あざけられ」「つばきをかけられ」「むち打たれ」「ついに殺されて」しまうが、三日目によみがえるだろう、そう予告します。
しかし弟子たちにはその意味がわかりません。彼らはついに到来したメシア・・イイススによって、長い間イスラエルを苦しめてきたローマ人の支配がうち破られ、民族が解放される、そう思いこんでいました。だから、主がこれほどあからさまにご自身のみじめな死を予告しているにもかかわらず、それに耳をふさいでしまいます。それどころか、こともあろうに、イイススの政治的支配・イイススの王国が実現したあかつきには、自分こそはよい地位につけていただくのだと、互いに争い合う始末でした。主はそんな弟子たちを戒めて言いました。「私の王国では、強い者が人々を上から支配するのではなく、お互いがお互いの僕として仕え合うのだ」と諭し、最後にご自身も「仕えられるためではなく、仕えるため」「また多くの人のあがないとして自分の命を与えるため」にこの世に来たのだと仰ったのです。
主イイススは「空の鳥をみよ、野の草をみよ」と、生活の煩いへのとらわれがどんなに愚かなことかを教えました。また「互いに愛し合いなさい」「敵を愛しなさい」と主に従おうとする者の生き方を「新しい戒め」として授けました。しかし主は、それでもなお自分がこの世に来たのは、教えや戒めのためではなく、私たちに「仕える」ため、私たちのために「命を与える」ためだと告白するのです。そしてその通り、主は十字架上で御自身の命を投げ出しました。
私たちが主と仰ぐお方は私たちのために死んでくださったお方です。そんなお方は他にはいません。だれが私たちのために「あざけられ、つばきを吐きかけられる」ことさえ耐え忍んでくれますか。イイススだけが、私たちのために屈辱を忍び、苦痛を耐え、そして死んで下さいました。
私たち現代人は、自分の夢や望みを実現してゆくことが人間的で充実した生き方だと教えられています。子供の時から「自己実現」へとあおり立てられ続けています。夢や望みの実現のためには、すべてを自分のための手段にして、いつも目標に向かってまっしぐらに生きています。そして役に立ちそうな人間関係をめいっぱい利用するのは当然と考え、誰も疑いません。逆にそうしない人間は消極的で無気力な落伍者として、いまや人々が平気で口にする賤しい言葉で言えば「負け組」として軽蔑されます。
私たちは「勝ち組」たるべくすべてを自分の僕として自分に仕えさせて生きようとしているのです。そんな生き方の中では「道徳」や「倫理」はお互いが衝突して、夢を壊し合わないための「交通ルール」にすぎません。そんな生き方を生きるなら、私たちは愚かな弟子たちと、すなわち主イイススが成し遂げようとしていることには少しも心を向けず、「誰が一番エライか」と競い合い、互いを自分に仕えさせようとした愚かな弟子たちと、少しも変わりません。
復活祭の喜びの前に、私たちも主の愚かな弟子たちといっしょに、主の受難と死に出会わなければなりません。何と神であるお方が私たちに「仕えるため」「生命を与えるため」に受難され死をお受けになったという事実に「はり倒され」なければなりません。私たちのために苦しみ、私たちのために死んだ主イイススを身じろぎもせず見つめなければなりません。同時に、人を従わせようとしか考えない、人を利用しようとしか考えない、人を仕えさせようとしか考えない生き方の危うさに気づき、立ちすくみ、そして心砕かれなければなりません。そして、そんな私たちのために命を投げ出した主イイスス、神であるお方の愛に泣かなければなりません。本日記憶する、放蕩に身を汚し続けたエジプトのマリヤ、主の聖なる堂の入り口で、足を踏み入れることができず、立ちすくむほかなかった女が、ついに主の愛を悟って、その愛を無にし続けてきたおのれの姿に、そしてその主の愛の無際限のあたたかさに泣いたように。