イオアン12:1-18 2017/04/9 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
今日、この礼拝の集いはシュロの枝と花で飾られています。聖堂にはかぐわしい香炉の香りが溢れています。美しい歌声が響き渡ります。昨夜の祈りではとっておきの香油の封が切られ、私たちの額につけられました。
ここに、あのユダがいたらなんと言ったでしょう。
過ぎ越しの祭のために、そして人々の救いを成し遂げるためにいよいよエルサレムに入場する前日、主イイススはラザリの家で夕食をとっていました。ラザリの妹マリヤは、高価な最良の香油をおしみなく主の足にぬり、自分の髪の毛をほどいて主の足をぬぐいました。「香油のかおりが家にいっぱいになった」。福音はそう伝えます。その時です、ユダがマリヤをとがめました。
「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに施さなかったのか」。
このユダが私たちのこの礼拝を見たらやはり同じことを言ったでしょう。「主の愛の教えを生きるなら、礼拝を飾るためのお金はたとえわずかでも、人助けのために使うべきではないのか。長い礼拝に費やされる時間は貧しい人々やハンディキャップを負う人々のための奉仕に、また平和のための集会やデモに使うべきではないのか」と。
マリヤをとがめたユダにイイススは言いました。
「この女のするがままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それをとっておいたのだから」。
最愛の者のために最高の持ち物を惜しげもなく注いだその愛を、イイススは祝福しました。イイススもまた、最愛の者のためにすべてを、なんと神であることさえなげうったお方です。そのうえマリヤの、「人助け」のための計算などからまったく自由な愛は、主への熱い思いは、期せずして主のなさろうとされていることを見通しました。主がご自身の死によって「人の死」を覆そうとされていることを。その死にマリヤは香油を注いだのです。
もちろんそんなことをマリヤは言葉にして知っていたとは思えません。マリヤは主が葬られて三日目の朝、葬りの香料を携えて主の墓に急ぐ女弟子たちの一行とともにいたでしょう。けれどそれは、葬りをまっとうするためであって、決して主が予告したご自身の復活を信じたためではありませんでした。
しかしマリヤが高価な香油を主の足に注ぎ、そして「主のいる家」をその甘い香りで満たしたとき、マリヤはたしかに知っていたのです。その愛によって見通した言葉にならない確信を、いとしい主への愛のわざとして表したのです。「主のいる家」を、すなわちやがて生まれる教会を、そして教会がそこに置かれる世界を、かぐわしい香りで満たす喜びが、何と主の死によってあふれでることを…。その福音、喜ばしい報せを伝えるために、この最良の香油を惜しみなく注ぐほかなかったのです。主の受難と死を記憶する一週間を目前にして、聖堂を美しく飾った私たちも知っているのです。主がもたらしたものが、もたらそうとされているものが社会正義や公正の実現、経済的な繁栄や限りない人類文明の進歩といったものではなく、それらが実現しなくとも、その試みがすべて挫折したときも、人々を喜びに生かし続ける「いのち」であるということを、私たちは主の足に香油を注ぐマリヤとともに知っているのです。私たちが今日こうして枝を振り花をかざして迎え入れようとしているのは、その「いのち」です。主がその死によってもたらした「いのち」です。そしてその「いのち」そのものであるお方です。
ユダと同様、イイススを自分たちのために社会正義を実現してくれる解放者としか理解しなかったエルサレムの人たちは、ろばに乗って入城するイイススを枝を振って迎えました。もちろん政治的なリーダーとして。しかしついにイイススがその為に何もなさらなかった時、何もなさるおつもりがないということが明らかになった時、少し先にそれを悟ったユダが主を売ったのと同様、民衆は一転して憎しみに駆られ主を「十字架につけよ」と叫んだのです。
しかし実はその叫びによってハリストスが死に定められたとき、主がほんとうになさろうとされていたことが成就しました。ご自身の死によって死を滅ぼし、「永遠のいのち」に私たちを生かすための、人となった神、イイスス・ハリストスの救いが成就しました。