マルコ9:17-31 2024/4/14 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
多くの人々が、生きることの苦しさ、つらさに、「信仰があれば」と思いつつも神や仏を、ましてキリスト教が教える処女からの降誕や死者の復活などを信じるなんて考えられないという思いで生きています。人生に何の躓きも屈託もなく、「どうしてこれじゃいけないの、毎日楽しければいいじゃない」と、さらさら流れるように過ごしてゆける、羨ましくも危うい人たちのことではありません。
「このままではまずい。必ずどこかで自分は行き詰まってしまうに違いない。でもどうしても信仰なんか持てそうにない。信じられないんだから…」、こういう方々には、一つ知っておいていただきたいことがあります。
本日の福音で、悪霊に憑かれ、今も目の前で泡を吹いて地面を転げ回っているわが子の癒しを主イイススに求めた父親は、主イイススにこう願いました。
「お出来になれば、私たちを憐れんでお助け下さい」
イイススはそれを聞いて父親をたしなめました。「もしできればと言うのか。信じる者にはどんなことでもできる」。父親は、主に取りすがって叫びました。「信じます。不信仰なわたしをお助け下さい」。主は直ちに子を癒しました。
この「信じます。不信仰なわたしをお助け下さい」という願いは、信じられない者が、信じられないと認めた上で、信じますから助けて下さいという悲痛な叫びです。実は、この支離滅裂な願いに主がお応えになった事は、信仰を考える上で決定的なことを教えます。…「信じられない者の信仰」があり得ることです。
多くの人々が日々刻々と近づく、また、いつ襲ってくるかわからない死におびえながらも、なすすべなく、日々の忙しさや気晴らしに心を麻痺させて時を浪費してゆきます。「これじゃいけない、一体自分の人生は何なんだ、このいてもたってもいられない不安は何なんだ。どうすればいいんだ?」、彼らの思いです。…「信仰…かも」。しかし、そこで立ち止まりです。「自分なりに納得できないことはどうしても信じられない」。…こんな気持ちの人々でも「神様、私は、依然としてあなたがわからない、あなたが見えない、あなたを捕らえることができません。けれどどうか、もしいらっしゃるなら(!)、どうか憐れんで、あなたの方からこの不信仰なわたしを捕まえて下さい」という祈りなら、祈れませんか。
このように祈るうち、やがて頑なな心が少しづつやわらいできて、私たちはもう一つ大切なことに気づきます。自分は「信じられない」から信仰を持てないと思っていたが、実は信じられないからではなく「信じない」からだということです。「いつか信じられるかもしれない」とただ待っていても、決して信じられるようにはなりません。信じなければ、信じられるようにはなりません。反対に全部自分なりに納得できたから信じるというのは、これはもはや信仰ではありません。それは哲学や科学ではあっても信仰ではありません。そもそも神が存在すること、神の子が処女の胎から人として生まれたこと、十字架による罪の赦し、ハリストスの復活、教会に溢れる聖神の恵み、ご聖体が主のお体と血であること、再臨と最後の審判、こんな途方もないことをさらりと「信じられる」というのは、嘘つきか病気です。嘘もつかず、病気でもなく、「信じられないこと」を潔く認めた上で、それでも「信じる」ことを「不退転の決意」として、そこに人生の一切を、生も死も、ゆだねきる、即ち「信じる者になる(イオアン20:27)」、これが信仰です。ハリストスというお方を人生に迎え入れれば人は新しい自分によみがえられる、そう信じる生き方を自分自身に引き受けて歩み出す、これが信仰です。
信仰は結婚に似ています。たとえ熱烈な恋愛結婚でも相手を最良の伴侶と確信できるから結婚するわけではありません。不安や怯えもあるけれど、全人生を賭けて互いの胸に飛び込んでゆきます。互いの深い理解と愛の確信に至るのは、苦労を共にし何度も危機を乗り越えてからのことです。信仰も同じです。信仰への決意からはじまり、行きつ戻りつしながらも、少しづつ成長し、やがて確信へと変えられる、ついには日々のいのちの律動へと変えられてゆきます。そのとき、心臓の鼓動のひとつひとつ、息の一つ一つが「祈り」となります。
この全てが、本日の福音の父親の叫び「信じます、不信仰なわたしをお助け下さい」という、支離滅裂な、悲痛な、そしてひたむきな祈りから始まります。