ルカ1:24-38 2024/04/07 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
マリアのもとに天使ガウリイルが遣わされ、「恵まれた女よ、よろこべ」と、彼女が神の子の母となることを告げました。しかし天使はマリアに、神の意志への服従を命じにきたのでも、決定事項を通告しにきたのでもありません。この出来事はよく「受胎告知」とは呼ばれます。しかし「告知」と言っても実際は、神は彼女に「提案」し「同意」を求めたのです。ガウリイルが、マリアの「お言葉どおりになりますように」という彼女の自由な意志を確認した後にはじめて、彼女を離れていったことを忘れてはなりません。
同じことが私たちの信仰の始まりにも、また信仰が躓いてしまいそうなときにも起きるのです。
私たちは愚かではありません。お金や社会的名誉が人を幸せにするとも、娯楽や旅行が人生を真に豊かにするとも、趣味や教養が人聞を完成させるとも、そんなことを本気で思っていません。お寺や教会との通りいっぺんの付き合いで救いを「ものにできる」なんてことは、お笑い草だってことは、よく承知しています。 そうではなく、神を本気で信じて生きるという生き方、これ以外に確かな道がないことに、心のどこかで、うすうす感づいています。
でも私たちは怖い。「あの人宗教にハマってるんだって」という、今までは自分が人に向けていた、違和感と好奇心と少しばかりの蔑みが混じった視線を、今度は自分が浴びることになるのが怖いのです。「普通の人」でなくなるのはやっぱり嫌だとためらうのです。信仰に本気になってしまった時に失うのは、不完全ではあってもそれなりに「実績」があるもの、手に入れようとするものは「神の国の永遠の生命」ではあっても、今は約束にすぎません。未知の人生への扉を前に、私たちは怯え震えます。天使が顕れて「恵まれた女よ、おめでとう」と挨拶した時、マリヤも恐れました。一体私に何ごとが起きるのだろう。すると天使が言いました。「恐れるな、マリヤよ。あなたは神から恵みをいただいている。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイイススと名づけなさい」。マリヤもためらいました。よくマリヤはすんなり従順に神の意志を受け入れたかのようにいわれますが、それは違います。今日お祝いしている生神女福音祭の早課では、マリヤ「種なくして(処女のまま)神をはらむ」ことを、手を変え品を変え説得しようとする天使ガブリエルに、マリヤはそのつど繰り返し「そんな馬鹿なことあるはずない」と食い下がります。こんなやりとりさえあります。「それは聖神の働きなんだ」と答える天使に、マリヤはこう言い換えします。「エバは蛇の誘いに乗ってしまい、楽園でのすばらしい生活を失ってしまいました。だから私はその二の前を踏みたくないので、あなたのあやしい申し出を鵜呑みにはできないわ」。
こんなやりとりが、日本正教会の祈祷書では8ページにわたって続くのです。
しかしマリヤは最後にはこう答えました。「お言葉どおりに、この身になりますように」。
同じ怯えにとらえられながらも、マリヤに倣って人生を神に献げきった無数の人たちがいます。彼らは洗礼のときに受けとり、ご聖体をいただくごとに新たにされる恵みの内で、「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」(イオアン15:12)というハリストスの呼び掛けを守り抜くために格闘し続けました。そして「光栄から光栄へと主と同じ姿に変えられていき」(コリンフ後書2:18)、ついに人生を、神を信じ愛すること、そして隣人を愛することを道徳としてではなく、喜びと神への感謝として知る生涯として、全うしました。私たちも今、同じ怯えに震えます。そして「恐れるな」とハリストス御自身から呼び掛けられているのです。「しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(イオアン16:33)