イオアン1:43-51 2024/3/24 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
ナファナエルという青年がイイススに「先生、あなたは神の子です」と信仰を告白しました。そしてイイススは彼に約束しました。「もっと大きなことを、あなたは見る…天が開けて、天使たちが人の子の上に上り下りするのを見る」と。
その約束は実現しました。でもどこで、どんな風に?
イイススの釘つけられた十字架が天と地を結ぶかのようにゴルゴダの丘にまっすぐ立っていました。私たちと同じ肉体をもったお方は確かに死に、そして驚くべきことに確かに復活しました。そのお方は復活の40日後、天使たちに伴われて天に昇りました。
これらを確かに見たからこそ、ナファナエルの信仰、そして使徒たちの信仰は、不屈の確信へと変えられました。
彼らの確信は罪と悪、そして不条理としか思えない人と世界の苦悶のまっただ中での確信です。何も変わっていない、何も変わらないとしか見えないこの世界の中で確かめられた確信です。何も変わっていないとしか思えない、自分自身の内に生まれた確信です。
ナファナエルは、そして使徒たちの確信とは、天が開け、神の恵みが地上に降り注ぎ、人の子・ハリストスの死と復活によって、人が再び神さまのもとに近づく道が開かれたことの確信でした。
使徒たちは、自分たちが思いついたことでもない、教えられたことでもない、考え出したことでもない、信じたことですらない、まさにこの「見たこと」を伝える使命をになって、一切をなげうち、世界中に散っていったのです。
私たちも「見たこと」によって支えられなければ、このひとたび信じて躍り込んだ信仰を、支え続けるのは極めて困難でしょう。この世の人々はそんなものどこに見えるんだと笑います。私たち自身がそんな思いにしょっちゅう捕まってしまいます。
しかし、正教は知っています。「見えないのではない、見ようとしないのだ。『この世の慮りをことごとく退け』(正教の聖体礼儀・ヘルヴィムの歌)『心を上に向け』て(同・アナフォラの祝文)『そこ』に立てば、誰にでもそれは見える」と正教は確信します。「そこ」とはハリストスがお定めになった主の晩餐です。ユーカリスト、感謝という名の礼拝、この聖体礼儀です。私たちはここに溢れる聖神の恵みにより、ハリストスが実現された新しい世界のビジョンをこの礼拝の交わりに見ます。私たちはご聖体のパンとぶどう酒に、新たに結び直された神さまと人との愛の一致と、その一致が結び直す人と人との愛の一致を、そして神の恵みのしみ通った新しい世界を味わいます。
大斎期に行われる先備聖体礼儀、領聖の直前にこう歌われます。
「味わえよ、主がいかに仁慈なるを見ん」
私たちはまさに「味わい」の内に、神の愛を「見る」のです。
このビジョンや味わいから離れ、ついに忘れてしまったとき、私たちの信仰は、人間的な「がまん比べ」に変わってしまいます。そこで私たちは、少しも新しく見えない、古いままにしか見えないこの世界の中で、いつまでも実現しない終末、そこでの最後の審判と神の国を、怯えながら、それでも歯を食いしばって待つだけです。そしてその「がまん比べ」の緊張に耐えられなくなったとき、その信仰はついにはもろくも崩れ去ってしまいます。
だからこそ
信仰に喜びと力と知恵を与える聖体礼儀・教会を決して離れてはなりません。
見続け、味わい続けましょう。そして「何も変わらない」「人生にはよいものなど一つもない」と思いこんでいる人々に、ナファナイルをイイススのもとに呼んだフィリップと一緒に、「来て見てごらん」と呼びかけ続けましょう。