マトフェイ6:14-21 2024/03/17 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音は「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるしてくださるであろう」と、大斎の旅立ちにあたって互いが「赦しあうこと」の大切さを教えます。
しかし、「ゆるす」ことを大切な愛の課題として引き受ける前に、私たちはまず自分に問わなければなりません。「自分はもしかして人との関わりの『めんどうくさい』一切からわずらわされないようにと、自分だけの世界に引きこもってしまっていないか」「ゆるすこともゆるされることも、そんなめんどくさいことを抱え込まないように、できるだけ人との関わりを持たずに生きていこうとしていないか」、そう問わなければなりません。
大斎という心と身体の旅、その目的地は復活祭です。神の国への過ぎ越しの祝いです。その過ぎ越しは、ひとりぼっちの「私」から、よみがえりのハリストスが差し出す宴にある「私たち」への過ぎ越しです。
その旅の最初になければならないのは悲しみです。神さまがせっかく贈ってくれた「私たち」という人のあり方から離れ去り、ちっぽけな自分の「平安」をびくびく守ることだけをひたすら求める「私」への痛切な悲しみです。そしてその悲しみに促されて、最初にしなければならないのは決然たる悔い改め、痛悔です。
そしてさらに、その悔い改めは、食べ過ぎたり、飲み過ぎたり、ふしだらであったり、わがままであったり、欲深かったり、そして人への憎しみに心を灼く‥そんな自分からの悔い改めである前にまず、「私」から「私たち」への方向転換でなければなりません。たしかに「私たち」は「私たち」であることが苦手です。「私たち」であることに怯えています。しかし「めんどくさい」と言って、この方向転換から逃げだそうとしてないでしょうか。愛への可能性へと開かれた道へ出て行かなければなりません。もし葛藤を恐れて、愛から自らを閉ざすなら、それが心に波風が少しも立たない「平安」なものであっても、人をご自身の三位一体の愛のかたちに創造した神さまをどれほど悲しませるかに、いち早く気づかなければなりません。
その道へと出て行ったとき、私たちははじめて、何よりまず、「ゆるし」としてこの地上に来られた神・ハリストスに出会い、その「ゆるし」と愛の中で、今度は自分自身が「ゆるす」者へと変えられて、ついに「よみがえり」としてハリストスを知ることとなるのです。「ハリストス復活!」「実に復活!」と正教徒は復活祭に挨拶を交わし合います。これこそ、私たちがまさに「私たち」へと変えられたことへの、互いの確かめあいなのです。五十日後、大斎の旅を終えて、はればれと「ハリストス復活!」と呼び交わし合うことができますよう。