マトフェイ伝25:31~ 2024/03/10 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
神さまは旧約の預言者イエゼキイルを通じて、人々にこう告げました。
「わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」(33:11)。
これが神さまの私たち罪人への熱い願いなのです。これを忘れて本日の福音を聞くなら、私たちはふるえ上がらないではおられないでしょう。
ハリストスはこう教えます。
最後の審判のために、ハリストスご自身がやってくるとき、人々はすべて集められ、羊飼いが羊とやぎを分けるように、右と左に分けられます。そして右の人たちに告げます。「あなたたちは私が空腹の時に食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅をしているときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時には見舞いに来てくれ、牢獄に囚われていた時には尋ねてくれた。だから神の国を受け継ぎなさい」。人々が「そんなことをしてさしあげた覚えはありません」といぶかると、「そのような難儀に遭っている人たちに親切にした時、それは私にしたのだよ」。次に、「人の子」は左に分けられた人たちに言います。「呪われた者たちよ。私を離れて永遠の地獄に入ってゆけ。あなたはたちは、私が空腹の時に食べさせず、渇いている時に飲ませず、旅していた時に宿を貸さず、裸であった時に着せず、病気の時や、囚われている時、私を訪ねてくれなかった」。左の人々は驚いて尋ねます。「それはいつのことですか」。「そういう難儀に遭っている人たちには何度も出会ってきただろう。しかしおまえたちはその時彼らに何もしてやらなかった。それは私にしなかったということだ」。
「私を離れて、永遠の地獄に入ってゆけ」。
なんという恐ろしい言葉でしょう。正直に自分の生きている姿、心の姿を見つめる者には、まったく受け止めきれない、ふるえ上がるほかない、恐ろしい宣告です。しかしその時こそ、冒頭に紹介した、神さまの私たちへの熱い、愛の願いを思い出さなければならなりません。
「わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか」。
ハリストスは、私たち罪人に、私たちの悪、私たちの愛を忘れた生き方への罰を宣告しているのではないのです。神さまは、そしてこのたとえを私たちに語るハリストスは、私たち人を自由な者、神の愛の願いに応えて「変わり得る」者であることを、すなわち「わたしは生きている」とご自身を示す神さまと同じく、私たちも「生きている」こと、「転じて生きる」ことができる者であることを知っている方なのです。どうしてって、そうお造りになったんですから。そこに希望をかけて、私たちに熱く、そして辛抱強くお呼びかけになり続けています。
しかし同時に、私たちが罪深く、弱く、神さまに不従順な者であることもよく知っています。ハリストスは私たちにどうか、左に分けられた山羊のように神を離れて死んで欲しくはないと厳しく、しかしこの上ない愛をもって訴えているのです。ついには生き方に応じて罰を与えると冷厳に宣告しているのではありません。すべての人々を神の国に招きたい。私の希求はそれしかない。だれ一人地獄になど落としたくないし、落とすつもりもない…。それが神の愛の真実なのです。
ではこのたとえ話は、ハリストスが人を悔い改めに促すために、わざと恐ろしげに語った作り話なのでしょうか。「審判」の教えは「悪いやつは地獄に落ちて恐しい目にあうぞ」といった子供じみた脅しに過ぎないのでしょうか。
とんでもないことです。神は人が死ぬのを、苦しむのを、決して喜びません。生きることへと呼びかけ、「あなたたちはどうして死んでよいだろうか」と胸を打って、私たちの立ち帰りをお待ちになる方です。
これほど切々たる、狂おしいほどの神の呼びかけ、その呼びかけにこもっている神のとほうもない愛にもし応えないなら、それは永遠の火に燃えさかる地獄に、自ら閉じこもってしまうことに等しい、ということです。神の愛の熱さこそが、神を拒絶する者、すなわち隣人すら愛さない者にとって地獄の現実であるのです。