フィリップ4:4-9 イオアン12:1-18 2025/04/13 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日は聖枝祭。私たちは今、主イイススの受難の一週間、その入り口に立っています。
エルサレムの人々はしゅろの枝をふって、ロバの子に乗って聖なる都に入場するイイススを喜び迎えます。輝かしい一日です。
しかしイイススにとってこの一週間は、受難と死の一週間でした。
ただ、私たちはすでに結末を知っています、三日目の復活も知っています。イイススが神であることも知っています。けれどもしそれを知らなかったら、イイススの一週間はまことに悲痛としかいいようのないに惨めな一週間でした。
弟子の一人が、イイススを裏切ります。イイススは捕らえられます。そして弟子たちはイイススを見捨てて逃げ去ってしまいます。イイススは敵意と殺意とあざけりのただ中にたった一人残されます。イイススは不当な裁きを受けます。民衆は手のひらを返すように「イイススを殺せ」と叫びます。イイススはつばを吐きかけられ、あざけられ、もてあそばれ、むち打たれ、ついに太い釘で十字架に打ち付けられます。誰も助けに来てくれません。天使たちの軍も…。
ついにイイススは天を仰いで「神よ、神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶほかありません。そして「すべてが終わった」と息を引き取ります。十字架の足もとから見守る母マリアの顔から一瞬にして血の気が失せ、卒倒するのが視界の隅をよぎったかもしれません。
私たちは誰でも、このイイススの受難に胸をえぐられます。「なんとおいたわしい」と。しかし、もしそれだけだったら、…「おいたわしい」イイススしか見えてこないなら、私たちはイイススのなさったことをその百分の一も理解できないでしょう。人ごとではなく…私の苦しみがここにある。それに気づかねばなりません。「あたしの痛み」がここにある。「俺の悲しみ」がここにある。「私と同じ孤独」がここにあります。
一時(いっとき)でけっこうですから、結末は忘れてください。結末を何も知らずに、ひとりの男に起きることを見守ってみてください。イイススのこの辛さと苦しみと一つになってみて下さい。そのうえで、今日読まれたパウェルの手紙を思い出して下さい。フィリップの教会への手紙です。
「あなたがたは主にあっていつも喜びなさい。くり返して言うが、喜びなさい。…」(フィリップ4:4)。
何を喜べというのでしょうか。結末を知らなければ、何をいつも喜べというのでしょうか。自分と同じように、生きることに苦闘し、ついに打ちのめされてひとりぼっちで死んでゆく男の、日々刻々の道行きを、うち見守りながら、いったい何を喜べというのでしょう。…せいぜい、「この人は私の苦しみを知っている。他の誰もが私を独りぼっちにしてしまったのに、この人は私の孤独を分かち合ってくださっている」、それ以外に、何か、喜べそうなことが、あるでしょうか。
しかし、そこにこそイイススの受難の最も大切な意味があるのです。
この日読まれた福音は、ラザリの妹マリヤが、愛するイイススのために高価な香油の一瓶を惜しげなく砕いて、イイススの足に香油を注ぎかけ、自分の長い髪をほどいてぬぐったこと、そしてその時、その香油の香りで家が一杯になったことを伝えます。その時マリヤは結末を知りませんでした。マリヤは喜びの油ではなく、主の死を予見して「葬りの油」として香油を献げたのです。しかしマリヤは甘く薫る香油の香りを、自分の苦しみを理解し、分かち合ってくださった、主への感謝と喜びを部屋中に、この世界中に満たさずにはおられなかったのです。
まして、私たちは結末を知っています。ハリストスの死が「死」にとどまらず、復活へと過ぎ越していったことを知っています。ハリストスの受難と死が、「死をもって死を滅ぼし」た勝利のわざだったことを知っています。主の苦しみと死を分かち合うなら、主の復活をも分かち合えることを知っています。
私たちは一週間後、「昼よりも明るい」、深夜のパスハ・復活祭の喜びの渦の中で一つになります。そのためにも、まず「結末を忘れて」主の受難と死を見守りましょう。そしてあらためて、「何を喜べと言うんですか」と、主に問いかけましょう。主は必ず、答えを下さるでしょう。