ルカ15:11-32 2024/03/03 大阪教会
父には二人の息子がいました。弟の方は父に財産の「生前贈与」を願って許されると、サッサと家を出て遠い町で遊び暮らしました。あっという間にすっからかん。豚のえさでも結構ですからと、物乞いするまでのていたらく・・・。その愚かさを悔いて「本心に立ち返り」父のもとに向かいました。落ちぶれて帰ってきた弟を、父が手ばなしで迎え、宴をもうけ人々を呼び集めて祝うのを、兄はなじりました。
「わたしは何年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけに背いたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹さえ下さいません。それなのに、身代を食いつぶしたあいつが帰ってくると、飲めや歌えの大宴会ですか」。
この兄の、父のもとでのマジメさは報酬への期待と、それに裏腹の罰への恐怖によるものだったことが透けて見えます。そこには「死んでいたのに生き返った」弟への愛も、子供たちの忠実さへ褒美で報おうなどと思いも寄らない、無条件の愛を注いでくれている父への愛もありません。
私たちも同様です。幼いときから、ご褒美への期待とお仕置きへの恐怖によって躾けられ、何でもギブ・アンド・テイクと考える癖がぬけません。健康も、幸福も、そして「天国」も、積んだ功徳の代償でしかありません。当然、降りかかる災いは何かの「罰あたり」です。こんな「マジメ」さを神は求めていません。
キリスト教に「マジメ」というイメージを持っている方が多くて困ります。テレビドラマや映画でもしばしば、クリスチャンは硬直したマジメ人間として戯画化されます。たしかに、キリスト教もクリスチャンもとびきりマジメです。「いきる」ことへのいつわりのないさを、自分自身に求めます。しかし、その真摯さが福音に見いだしているのは、マジメとフマジメ、報酬と罰という枠組みをこえた、神との交わりへの招きです。途方もない愛への…。
裁きへのおびえは克服されます。神がさしだす世界といのちがハリストスのよみがえりのいのちとして、そう聖体礼儀のパンとぶどう酒として、喜びと感謝とともに受け取られます。