ルカ18:9-14 2024/02/18 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日は「税吏とファリセイの主日」です。先ほど読まれた福音では、神殿で、自分の送る正しい生活に胸を張るファイリセイ派の人と、片隅から目も上げずにただ胸を打ち「神さま、罪人のわたしをおゆるしください」と祈っている税吏が対比されます。イイススは、この税吏こそが、その謙遜な痛悔ゆえに、神に祝福を受けると教えます。まさに「悔い改めなさい。悔い改めてこの税吏のように救われなさい」というメッセージです。
この税吏とファリセイの譬えが、ただ意味もなく今日読まれるわけではありません。あと三週間で大斎が始まり、さらに六週間で主の十字架の受難を記憶する受難週、そして待ちこがれる復活大祭です。その間、私たちは生活を節制し、聖堂でも日常生活の中でもいっそう頻繁に祈ります。その祈りのテーマはいつも痛悔、悔い改めです。ハリストスの宣教の第一声は「悔い改めなさい。神の国は近づいた」でした。まさに復活祭、神の国の宴の喜びに入るために、私たちは、何よりも先ず、痛悔を深め、悔い改めなければなりません。それを、大斎に入る三週間前の今日、あらかじめ呼びかけ、心の準備を促すのが本日の福音です。
では、痛悔とは何でしょうか。
税吏はこのように祈りました。「神さま、罪人のわたしをおゆるしください」。「罪人のわたし」。ファリセイが税吏を横目に言った「罪人のあの男」ではありません。「罪人たる私」です。これを心底、知ることです。たんに知るばかりではありません。税吏は「目を天にも向けず、胸を打って」祈ったとあります。「罪人のわたし」を知って、それに打ちのめされ、砕かれました。
昨晩の祈りで、次のような聖歌を歌いました。税吏とファイリセイの主日から、大斎の期間中の主日の前晩祷にかならず歌われる祈りです。
「生命を賜うハリストスよ、我に痛悔の門を開けよ…」。
私は痛悔すら、自らの罪を知り嘆くことすら、自分の力ではできません、どうか、私のかたくなな心を破って、痛悔の涙を溢れさせて下さい…。
私たちの罪の深さ、それは、私たちが自分の罪に気がつかないほどだいう、厳しく苦い洞察がそこにはあります。しかしこの聖歌はまことに美しく、声をそろえて歌うとき、聖堂に甘やかな喜びが溢れます。繁華街の雑踏のどこかから聞こえてくる「悔い改めなさい」という鉛色の声と、何という違いでしょう。
それは、「罪人である自分」を知って撃たれる私たちの思いが、「罰への恐れ」ではなく、むしろ「悲しみ」とそして「喜び」だからです。痛悔すればするほど、自分の罪深さを知れば知るほど、地獄で受ける罰の恐れに震え上がってゆくのではありません。神さまが憐れんで痛悔の心を恵んで下さった、痛悔の門を開いて下さったという喜びと、それとは裏腹の、それほどまでに私を愛してくださっているお方を自分は長い間裏切り続けてきたという悲しみが、互いに強めあい高めあってゆくのです。そしてその極まりで私たちはついに涙を恵まれます。
正教の聖師父たちは痛悔の涙を神の賜物、神さまからの贈り物と呼びました。ある聖師父は「すべての罪を洗い流す涙の泉」と呼びました。この涙は、私たちの涙でありながら、実は私たちの内に住まう、ハリストス・神の流す涙でもあります。私たちの苦い生き方からこれほど甘いものが、私たちの冷たい心からこれほどあたたかいものが、私たちの汚れた心からこれほどきよらかなものが、あふれでるはずはありません。だからこそ、この涙は神さまからの贈り物です。この涙が、ハリストス・神の涙が私たちの罪を洗うのです。この涙そのものが、私たちの救いの証であるといってもよいでしょう。
この痛悔の涙の溢れの中で、神さまの愛に立ち帰ろうと決意すること、これが悔い改めです。そこには悲しみがあります。しかしそこには、その悲しみと一つの喜びがあります。決して恐れはありません。愛として神を知ったからです。