2024/2/18 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
税吏の頭、ザクヘイは、イイススが町にやってきたと聞き、矢も楯もたまらず家を飛び出しました。ところが人垣に遮られて、背の低い彼にはイイススが見えません。彼は人目もかまわずいちじくの木によじ登りました。イイススはそのひたむきな姿に目を留め、「今日はあなたの家に泊まろう」と約束しました。
大の大人が人目もかまわず、裾をからげて木に登ってしまうという、ザクヘイのこの激しい行動の背後には、彼の長い、闇の中を行くような日々がありました。
税吏、取税人とは、ユダヤ人同胞を支配し苦しめるローマ帝国のかわりに、税金の徴収を請け負った人たちです。彼らは当然、同胞たちから、ローマの手先、民族の敵、裏切り者として、ヘビや蠍の如く嫌われ「罪人」として蔑まれました。そんな冷たい眼差しを、日陰者のひねくれた目で見返しつつ、彼らは取り立てた税金の上前をはね、贅沢な暮らしに罪悪感を紛らわせていたのです。ザクヘイはこんな自分を憎み続けてきたに違いありません。しかし、そこから抜け出す事もできず、開き直って、やけっぱちに過ごしてきたのです。
そんなある日、めざましい癒しのわざと力強い説教で評判のイイスス、その上自分と同じく「罪人」として蔑まれる異邦人や娼婦たちとも親しく交わり、一緒に飯まで食うというイイススがやってきました。ザクヘイの心に「イイススを見たい」という激しい望みが生まれました。しかし駆け出してみたものの、人垣で見えません。彼は木によじ登ることをためらいませんでした。
イイススは、いちじくの木の葉陰から、ご自身をじっと見つめるひとりの男、このザクヘイの熱い眼差しに、一切を見て取りました。主のつとめは「失われた者を尋ね出して救う」ことでした。主は、そこに、人生を見失い途方に暮れ、一筋の望みをご自身にかけている、ひとりの「失われた者」を見いだしたのです。
主を迎え、主を目の当たりにした時、これまで激しくザクヘイを苦しめていた自分自身への憎しみがはっきりと「悔い改め」という心の姿勢に変わりました。同時に、肉体の芯から突き上げてくるような喜びが彼を満たしました。彼は、単なる罪滅ぼしや償いではなく、その喜びのおさえがたい表れとして、貧しい人たちへの施しと、自分が不正行為をした額をはるかに越える償いを約束いたしました。
私たちもザクヘイと同様、この世の生活の中で、神様から見ると一つ一つが宝石のように大切な私たちの「いのち」を見失っています。自分のいのちを道ばたの石ころのように見なして、心と身体を汚し消耗させています。これではいけないと気づきながらも、この世の思いという「人垣」に遮られて、ハリストスの姿が見えなくなってしまっています。これが、復活祭から一年近くたち、復活祭で味わった喜びの記憶も薄らぎ、この世に絡み取られている今の私たちの姿ではないでしょうか。しかし幸いに、私たちは教会を離れませんでした。迷い道に何度も入りそうになりました。しかし、今日ザクヘイと共にこの礼拝に立っています。
大斎という、イイススと出会う旅、イイススという、私たちをほんとうに慰め私たちに「いのち」を与えて下さる、唯一のお方と出会う旅、このイイススというお方の生き生きとしたイメージを取り戻す旅、その終着点に「復活」の喜びが待ち受ける旅、…この大切な旅に出発しようとしている私たちに最も大切なのは、「イイススに出会いたい」という心からの望みです。それはザクヘイの「イイススというお方を見たい」という切実な望みを、彼と分かち合うことに他なりません。この望みがあれば、大斎の祈りと節制の体験は必ず、私たち一人一人をハリストスと出会わせてくれます。