マトフェイ15:21-28 2024/02/11 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音で伝えられるイイススは、ちょっと意地悪です。
舞台は異邦人カナン人の町、ツロとシドンへの道すがらです。そこへカナン人の女が、国境を越えてイイススのもとにやってくるや、「主よ、ダヴィドの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と叫びながら、主にまとわりついて離れません。しかしイイススは無視します。弟子たちが「頼みをきいてやって追い払ってください」と願うと、何と意地悪な返事、「わたしはイスラエルの人々のために働いている、あんたたち異邦人のためじゃない」。女はそんな言葉は耳に入らないかのように願い続けます。するとイイススはもっと意地悪に、こんなことを言います。「子供たちのパンをとって、子犬に投げてやるのは、よくない」。子供たちとはイスラエルの人々、子犬は異邦人たち。こんな嫌みでまわりくどいあてこすりは、あからさまに言うよりかえって酷く、人を傷つけます。ひどいお方です。しかし女はめげません。逆に「しめた!」とばかり、主のあてこすりに切り返します。「その通りです。でも子犬だって、主人の食卓から落ちるパンくずぐらいはいただきます」。
イイススは脱帽します。いや正確には脱帽したふりを、弟子たちに見せて、何を言われようがひるまない彼女の信仰を、ならうべき模範として示したのです。
「いや見上げた女だ。おまえの信仰がおまえを救うだろう。願いは叶えられる」。そのとき、娘の病は癒されました。
彼女が国境を越えて出てきた、自分たちを異邦人として軽蔑しているユダヤ人の一員であるイイススの前に出てきた、この行動は必死のものでした。異邦人には異邦人なりのプライドや誇りがあったはずです。しかし、このとき彼女にはプライドも誇りもありませんでした、子犬と呼ばれても傷つきません。また異邦人には、自らを「選民」と誇るユダヤ人たちの軽蔑にさらされ続けてきたために、深い劣等感がありました。しかしこのとき彼女にはそんなコンプレックスにいじけてしまうことはありませんでした。
だから、イイススの意地悪な言葉に思わずむっとしたり、怒りに震えたり、悔しさで黙り込んだりしなかったのです。彼女は民族にも、自分自身にもまったく関心がありませんでした。そんなものなど吹き飛んでしまっているのです。彼女は娘の病気が治ることにしか関心がないのです。
彼女はイイススに「わたしを憐れんでください」、「わたしをお助けください」と願っています。「娘を」ではなく「わたしを」です。彼女は病気の娘と一つなのです。娘が苦しければ、彼女も苦しいのです。娘が何も食べられなければ、彼女も食事がのどにつかえてしまうのです。娘が痛みに泣き叫べば、彼女も痛みに心が引き裂かれるのです。娘が熱でのたうつ時は、彼女ものたうつのです。娘が希望のない将来に絶望するなら、彼女も気も狂わんばかりに、胸を打つのです。彼女は娘と一つなのです。だから「わたしを憐れんで・・・」。
彼女はまさに、このとき「無私の愛」そのものです。この無私の愛が、異邦人である自分、人としての誇り…、人を小さな己れの中に閉じこめてやがて腐らせてしまうかたい殻を踏み破って、そう「国境を越え」て、イイススのもとに「出て」行かせたのです。彼女は、主の前でこの上なく自由でした。何ものにもとらわれず、しなやかに主の「意地悪」に対応することができました。
そこで皆さんに質問、
愛によって無私となり、自分のからを破って、出てきた者、そういう人を私たちはもうひとり知らないでしょうか。その方も境を超えて、私たちの元にこられました。愛する私たちと一つになりました。私たちとともに苦しみました。そして私たちに自由を与えるために、「出てこないか、あなたの殻から」と呼びかけておられます。その呼びかけへの応えを、私たちから引き出すために、時に試練を与えます。
私たちが超えるべき境が、見えているでしょうか。その境の向こう側から、神であるのに、境を越えて人となったハリストスが、呼びかけているのが・・・。