ティモフェイ前1:15-17 ルカ18:35-43 2024/02.04 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
ハリストスによって目を開かれたひとりの盲人の物乞いが、「神を崇めながらイイススに従っていった」と福音は伝えます。「神を崇めながら」。ここには彼に「何が見えるようになったのか」が示されています。彼は「神と、ほんとうの生き方」を見つけたのです。たんに肉体の目が視力を回復したのではありません。もっと広々とした、また深い、新しい「ビジョン」が彼に開かれたのです。
もう一人、目が見えるようになってイイススに従った人がいます。聖使徒パウェルです。彼はダマスクのクリスチャンたちを迫害する役割を自ら進んで引き受けて、「殺害の息をはずませて」(使徒行伝)道を急いでいました。その途上、突然天から射してきたまばゆい光に包まれ、地に打ち倒されました。そして復活したハリストスの声を聞きました。「なぜ私を迫害するのか」。起き上がったとき、彼は視力を失っていました。この体験によってイイススを救い主として知って回心をとげた時、パウェルの目からは「鱗のようなものが落ちて」、彼の視力は回復しました。しかし彼が見えているのは以前と同じではありませんでした。彼は洗礼を受け、迫害者から一転、福音の伝道者へと変貌を遂げました。
そのパウェルが先ほど読まれた「ティモフェイへの第一の手紙」で、こう言っています。
「ハリストス・イイススは罪人を救うためにこの世に来てくださった。…私はその罪人の頭なのである」。
視力を回復したパウェルが最初に見たのは、「罪人の頭」としての自分でした。パウェルは喜びに溢れて「わたしは罪人の頭である」と言い放っています。彼はこんな自分にも「限りない寛容を示し」、「永遠の生命を受ける者」としてくださったお方を知り、讃め上げの声をあげます。
「衆罪人のうち我第一なり」。…私は罪人の頭です。
私たちもこれからご聖体を受けようとするとき、パウェルとともに、こう告白します。私たちもまた、罪深い自分への悲しみとともに、そんな私たちへさえご自身のお体と血を「取りて食らえ、取りて飲め」と差し出してくださる、主ハリストスへの感謝と、喜びに胸をいっぱいに満たします。私たちもまた、ハリストスに目を開かれたのです。この世のビジョンではなく、神の国のビジョンの内に生きる者とされたのです。
しかし、そもそもの始まりは何だったのでしょう。
「わたしに何をしてほしいのか」という主の問いかけではなかったでしょうか。 この盲人は物乞いでした。だから彼は不意を突かれたでしょう。彼自身はたんに小銭が欲しくて「ダヴィドの子よ」とおもねっただけかもしれません。しかしイイススは知っていました。この男には自分がほんとうは何を求めているのか見えていない。しかし求めているものが自分には見えていないことは知っている。見えているものがほんとうに彼が欲しいものではないことは知っている。
「見たい、でもそれを見つけられない。それを見せてください…」。
そんな彼の心に主はまっすぐに投げ込みました。「何をしてほしいのか」。
彼は一瞬の戸惑いの後、声を上げました。「見えるようになることです」。
聖使徒パウェルに起きたことも、かつて初めて教会の門をくぐった私たちに起きたことも同じでした。ハリストスというお方、御言葉であるお方に、問いかけられたのです。そして「見えるようになりたい」と心から思い定め、主に声を上げたのです。
そう声を上げたとき、また上げるとき、私たちは私たちの目を開いてくださるハリストスを信じる生き方へと躍り込みました、躍り込みます。その時こそ、私たちがまことの自由を取り戻すとき、そして神の恵みの時です。最初に見えてくるのが罪に捉えられた惨めな自分の姿であっても、私たちは十字架の主がそれをすでにお赦しになっていることを知っています。その喜びと感謝が、罪への悲しみをおおい、やがて私たちは立ち上がり、溢れ続ける涙をぬぐいながら喜びの歌を歌います。