マトフェイ3:13-17 2024/01/21 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススがヨルダン川でイオアンから洗礼を受けると、にわかに「天が開け」たとマトフェイ伝は伝えます。マルコは同じ出来事を「天が裂けて」といっそう印象的に伝えています。
「天が開け」、あるいは「天が裂け」、…このイメージには「天は閉ざされて」いるという、私たちが生きている現実が向き合わされています。ほんとうは見えるはずのものが、見えていない。ほんとうは聞こえるはずのものが聞こえていない。ほんとうは味わえるはずのものを味わっていない…。私たちが「これしかない」と思い込んで生きている現実が、閉ざされている現実だからです。神が本来人に与え、それを生きる者として人が造られた現実に対して、閉ざされている現実だからです。私たちは、その現実に長い長い間、閉じこめられ続けたあげく、この現実こそがすべてと思い込んでしまっています。
しかし、人となった神の子・イイススがこの世に来ました。その十字架の死と復活によって天と地を再び合わせられました。新しい現実です。私たちに問われているのは、この新しい現実を、どのように生きるかということです。
天が開けたとき、ヨルダン川の水辺にハリストスが立っていました、聖神が鳩のかたちでその頭上を舞っていました、天上から父の声が響き渡りました。「天が開け」示された新しい現実は「父と子と聖神」一体の神の、愛の現実です。争いと分裂の現実、憎しみと孤独の現実が覆い尽くす世界に、この「父と子と聖神」一体の愛の現実が、「神の現れ」、「神現」として人々に体験されたのです。
これまで私たちは争いと分裂、憎しみと孤独こそが現実であり、愛は一時のまぼろしに過ぎないと、思い込んで生きてきました。私たちはこの世に覆い被さっている天が、実は遠い昔に閉ざされてしまった天であることを忘れ、その天の下以外に生きる場所はないと信じていました。しかし、いまや新しい愛の現実の中で、「水」が聖なる水に変えられ、その水に沈められた私たちは文字通り「すくい出され」、開かれた天へと、新しい現実へと引き上げられてゆきます。
「父と子と聖神」一体の愛の現実と申しました。しかし、その愛は自分をそこへ追い詰める、道徳として覆い被さってくる「愛」ではありません。「愛さない者は地獄に落とされる」と私たちを脅しつける戒めとしての「愛」ではありません。その愛の味わいは、誤解を恐れずに言えば、限りなく恋の味わいに似ています。天が裂けます。ついに思いを遂げた恋人たちと同じように、閉ざされていた感覚のいっさいが心と体を貫き、法悦にふるえさせるんです。
イオアンの福音が「友のために自分の命をすてる、これ以上大きな愛はない」と教える、その愛を生きる者には、人が心と体のすべてをあげて自分をそこへ投げ出してゆく、官能のふるえと一つになった「喜び」が約束されています。
聖人たちの生涯には、このすばらしい愛のエピソードがあふれています。無数の人々が神を愛し命を捨てました。無数の人々が心を焼き続けてきた憎しみにうち克ちました。無数の人々が倒れ伏した人々のために自分を犠牲にして働きました。彼らははたして、「そうしなければ地獄に落とされる」と怯えて、自分をそのような「自己犠牲」へと、「愛」と名付けられた「道徳」へと追い詰めた人々だったのでしょうか。彼らははたして「そうすれば天国へ入れてもらえる」と報いを期待して「愛の行い」に励んだ人々だったのでしょうか。
違います。みな「天が開けた」のを、いつもいっしょにいて下さる主イイススと共に仰ぎ見たのです。愛することは、もはや神ご自身の喜びの分かち合いです。神は「さあ、私の喜びに入れ」と、私たちに愛のチャンスを人生のそこかしこに贈って下さっています。差し出して下さいます。それを進んで受け取るとき、痺れるような魂のふるえの中で、その神の喜びが、自らの喜びと一つになるのです。
すべて神が、愛をまぼろしと思い込む私たちを深く悲しみ、独り子イイススを通じて、愛して下さったからです。私たちは、聖体礼儀という、神が私たちに贈って下さった乗り物に乗って、その開かれた天、神の愛のもとへと昇ってゆきます。愛を喜びとして知るために…、天はもはや閉ざされていないことを知るために…。