マトフェイ2:13-23 2024/01/14 大阪教会
ハリストス生まる!
本日の福音の主人公は主の「父」イオシフです。
イオシフは生まれたばかりのイイススの身に危険が及ぶと、天使によって知らされ、家族を連れてエジプトに避難しました。やがて難が去った後もベツレヘムには戻らず、ガリラヤ地方のナザレという町にひっそり暮らすことを選びました。天使のお告げに導かれていたとはいえ、イオシフの慎重で現実的な判断です。
主の母マリヤは、神がご自分の腹に宿るという、人の理解を絶した神の意志を受け入れました。それも子を孕むという肉体の現実として受け入れました。だから、マリヤには宿った子への疑念はありませんでした。我が子イイススへの、人間の女にすぎない自分から生まれた神・ハリストスへの信仰を、最後までまっすぐ保ちました。
それに対し主の父、といっても実際には血のつながりはありませんが、イオシフはこの降誕の場面と、主が十二才の時のエピソードにしか登場しません。イオシフのイメージはマリヤほど鮮明ではありません。
この主の父イオシフの大切なイメージを、今日も聖堂中央に置かれている降誕祭のイコンに見ることができます。彼は左下で腰を下ろし浮かぬ顔で頬づえをついています。そばに立つ老人が話しかけています。処女である自分の許嫁に子どもができたという出来事を、天使が告げた通りに「神が聖神によってその御子を処女マリヤの腹に宿らせた」とは信じ切れない、気の毒な一人の夫の姿がここにあります。老人は悪魔です。「処女が子供を産むなんてほんとに信じられるのか?何か悪いことがあったんだよ、天使のお告げなど、その現実に直面できない君の妄想にすぎないよ」と、不信をあおっているのです。教会は更にこのイオシフの姿に、私たち自身の姿を投影します。私たちの信仰の現実です。理性や感覚で捉えられないことを信じることへの躊躇いです。またその不信を煽る、この世の差し出す宗教観です。それらは人類学や、歴史学や、哲学や、心理学で信仰心の起源を説明して宗教を人間の精神文化の一つに引き下ろしてしまいます。それらの思想や学問は「神のかたちに人は造られたと聖書は教えるが、実際は人が自らのかたちに神をでっち上げた」と言います。ぐらぐらしませんか?
イオシフという人に少しは親しみがわいてきませんか?いずれにせよ、イオシフは信と不信に引き裂かれ苦しみました。この苦しみは生涯続いたでしょう。
しかしこのイオシフが、最初にお話ししたように、慎重で現実的な行動を選択し、イイスス・ハリストス、この世に宿った神の子を守ったのです。信と不信に引き裂かれるというまことに苦しい緊張の内にありながらも、一度きりの人生を、信仰が揺らぐたびに信仰の決断を、あらためて取り戻し続けたのです。イオシフは曇りなき素朴でまっすぐな信仰にあこがれつつも、絶えず足踏みしてしまう私たちの希望です。
また、このイオシフのような信仰は常に、慎重で現実的な配慮を持って信仰生活を、教会を、家庭を、狂信や情緒的な気分だけの信仰、またもめ事や秩序の崩壊から守ります。そのために疑い深さと紙一重とも言っていい「醒めた感覚」が、ここにはあります。
ただ、決して忘れてはならないのはイオシフのこの現実的な「醒めた感覚」は、彼がイオシフのようにハリストスを守るために賜ったものであり、神さまや教会とは火傷しない程度のほどほどの距離でつきあい、冷たくも熱くもない「この世の生活」「自分なりの生活」を汲々として守るために与えられたものでないということです。
最後にもう一度降誕祭のイコンに目を向けてみましょう。白い布に包まれたイイススの傍らに横たわるマリヤの視線をたどってゆくと、悪魔にそそのかされ不信に揺らぐ夫イオシフの姿に行き着きます。私たちもまたマリヤのまなざしを通じて、主イイススからいつも憐れまれ、慰められ、勇気づけられているのです。