2024/01/07 大阪教会
ハリストス生まる!
マリアのもとに天使ガブリイルが遣わされました。天使は、「恵まれた女よ、よろこべ」と、彼女が神の子の母となることを告げました。しかし天使はマリアに、神の意志への服従を命令しにきたのでも、すでに神が決定した「決定事項」を「通告」しにきたのでもありません。この出来事は一般には「受胎告知」と呼ばれますが、「告知」とは言っても、じっさいのところは、神は、祝福された喜ばしい知らせとして彼女に「提案」し「同意」を求めたのです。だから日本の正教会ではこの出来事を、「告知」という言葉を避け、「生神女福音」と呼びます。神がご自身の創造した人間に、なんと「いかがでしょう」と申し出たのです。驚くべきことです。天使ガブリイルは、マリアの「お言葉どおりになりますように」という同意を確認した後にはじめて、彼女を離れていきました。これを忘れてはなりません。
神は待って下さったのです。その間、彼女は「思いめぐらし」、「どうして!まだ夫がいませんのに」といぶかりました。天使は、神の申し出を受けるかどうかを、マリアの「自由」に委ねました。「絶対いや!」と撥ねつけられることもあり得ることを、神はご覚悟のうえです。
このマリアの同意が、彼女を生神女、神の母とし、救い主をこの世に迎え入れたのです。この世の救いの始まり、その口火を切った「うなづき」です。
それが意味するのは、私たち人は皆、神から自由なものとして扱われ、このマリアと同じように神のご意志への「同意」へと呼びかけられているということです。神は私たちに服従を求めません。またご自分の思い通りになるように私たちを「操作する」ことも、まして私たちの思いや行動をあらかじめ決定し、そうなるようしておくこともなさいません。私たちひとり一人をかけがえのない人格として愛しておられるからです。私たち一人ひとりに敬意を持ってつねに「申し出て」くださっているのです。私たち人が、この世の現実の中で実際に行っていることとは反対に、神は私たちをたたきも殴りもしません。罰則で脅しもしません。背かれることもあることをあえて承知で、「全能」であるはずの神はご自身の「全能さ」を私たちへの愛ゆえに放棄しました。ビザンティンの神学者カバシラスはこれを「狂おしいほどの神の愛」と呼びます。
私たちが主イイスス・ハリストスの降誕を祝うのは、私たちを自由な者として、今もご自身の愛へと呼びかけ続けておられる、その「狂おしいほどの愛」を讃えるためである、…そう言っても言い過ぎではないでしょう。カバシラスはその狂おしさをこのように語っています。
「神は私たちにその愛を表したが、拒絶され戸口で待っている。ご自身が私たちのために行ったすべてのよきわざの見返りに、神が待って、求めておられるのは愛だけである」。
人は実に憐れな存在ですが、しかし人よりはるかに憐れな者がいます。クリスチャンとはそれを知っている者です。その憐れな者とは、人の心の戸口に立って愛を乞い求め続ける神です。聖使徒イオアンはこの神の思いを、こう聞きました。
「見よ、わたしは戸口に立って戸を叩いている。もし誰かがわたしの声を聞いて、戸を開けるなら、わたしは中に入り、彼らとともに食事をするであろう」
私たちクリスチャンはついに扉を開いて私たちの内に神をまねき入れました。 聖体礼儀という「食事」で、ご自身を命の糧として私たちに分け与えるハリストス・神の喜びは、私たちの喜びであり、その喜びこそ私たちの救いの喜びです。
ハリストス生まる!