マトフェイ1:1-25 2023/12/31 大阪教会
ハリストス生まる!
系図は普通、自分の家柄を自慢するために作られますが、本日読み上げられたイイススに至るこの系図は、イスラエル民族の悲惨な歴史、消すことのできない罪の汚点を浮き彫りにします。この系図は骨肉の争い、悲惨な殺し合い、あざむき、男女の愛憎の葛藤、神への背き…の歴史、深め続けられた罪の歴史そのものです。みなさんは、最後に呼ばれるイイススの名をどんな思いでお聞きになったでしょうか。
私たち一人一人の人生にも歴史があります。できることならば消し去ってしまいたいあやまちがいくつもありました。人を侮り辱めたこと、人の心をもてあそんだこと、卑怯な振る舞いで仲間を裏切ったこと、酷い言葉を投げつけて、ぬぐい去れない深い心の痛手を、小さな者たち、自分より弱い立場の人たち、また家族にさえ負わせたこと、盗んだこと、…それらのたくさんのあやまちによって、私たちは自分自身にも数え切れないほどの傷をつけてしまっています。そこには浅い傷、深い傷、骨まで砕いてしまうような深刻な傷もあるでしょう。私たちはその傷の痛みに苦しみ、あえぎ続けてきました。叫び出したいくらいです。
そういう私たちがイイススというお方と始めてほんとうの意味で出会う時、…すなわち、アダムとエヴァ以来の罪の歴史、その系図の末尾にその名を置かれたイイススその人が、むち打たれ太い釘で貼り付けにされ、血まみれになって十字架にかけられているのを見上げる時、私たちが見るのは決して私たちの「代わりに」苦しんでくださっているイイススではありません。私たちが自ら傷つけた傷を、ご自身は少しも罪がないにもかかわらず、ご自身の傷として分かちあってくださり、私たちの苦しみを一緒に苦しんでくださる、そのために「人となった」神です。それは逆にこうも言えるのです。傷だらけの私自身が、神であるのに人の姿に身を落とされたイイススに受けとられ、さらにイイススご自身とともに、そこに釘付けられているのです。イイススとともに死ぬために。
このお方が三日目に復活しました。傷つき血まみれの私たちは、傷つき血まみれのイイススとともに死にました。そしてよみがえったハリストスとともに、私たちもよみがえりました。傷は癒えました。ただ傷跡は残って、時には激しくうずきます。しかし、その癒えた傷跡は今やよみがえりのしるしです。自分自身を、取り返しがつかないほど深く傷けた私が、私たちが、主に癒されたしるしです。新しい生活、…ハリストスとともに罪と戦い、ハリストスとともに自らを神に献げ、ハリストスとともに食事をし、ハリストスとともに働き、ハリストスとともに祈り、ハリストスともに喜び歌い、ハリストスとともに悲しみ、またハリストスとともにはればれと笑う生活が始まりました。
そしてもう私たちはひとりぼっちではありません。主を信じ、主に集められた仲間と一緒です。ハリストス・イイスス、「神は救う」という名のお方、同時にハリストス・エンマヌイル、「神は我らとともにす」という名のお方とともに、「私」は「私たち」へと結び直され、神の国へ歩み始めます。
神が我らと共に歩んでくださる新しい時が、家畜をつないだ洞窟でひっそりとお生まれになった、イイススとともに「いま」始まります。