第3主日 説教 マトフェイ6:22-33 2023/06/25大阪正教会
父と子と聖神の名によりて
「何を食べよう、何を飲もう、何を着ようかと、自分の命やからだのことで思い煩うな。空の鳥を、野の花を見なさい、働きもせず、つむぎもせず、まして煩うことなどしない。…彼らでも、全盛期のソロモン王以上に美しいではないか、…神のはからいに生かされているではないか、…何を煩うのか」。
主イイススのこのことばは、多くの人々に深い共感と慰めをあたえてきました。 しかし、この教え通りに、何も煩わず、神にすべてを委ねきってゆける人が一体いるのでしょうか。アダムとエヴァが神の戒めを破って「善悪を知る木」の実を取って食べて以来、人は生活への思い煩いに生きざるを得なくなってしまったのです。アダムとエヴァ、すなわち人は、その禁じられた実を取って食べたことで、神に対して独り立ちを宣言したのです。神のはからいと保護の中で生きることをいさぎよしとせず、「俺だって自分一人でやってけるんだ」と楽園を自ら捨てたのです。神から「罰として追放された」というのは真相ではありません。そして「いばらとあざみ」がおおう不毛の大地に、クワを打ち込み続けなければならない生き方を、この世に招き寄せてしまったのです。思い煩いの毎日です。知恵を絞り、力をつくし、自力で、神の贈り物であったはずの世界を人間自身の生存のための資源として、開発し掘り尽くしてゆかなければならない毎日です。「進歩と発展」の歴史が始まりました。そしてついに神の領分に踏み込み続けてきた人類は、たとえば、かつては想像もできなかった高度な医療技術を手に入れました。その結果、延命治療か、何もしないか、家族の「生と死」の選択を迫られ、まさに思い煩わねばならなくなりました。神はこんな過酷な思い煩いに耐えられるように人を造ってはいません。
このように生きている私たちにとって、「空の鳥を見なさい、野の花を見なさい」という主の言葉は、失ってしまった生き方への甘く切ない追憶として、心を揺さぶるのです。この喪失の重大さに気づかせるのです。しかし、それだけです。それ以上は、立ち往生です。
そんな私たちへの、神の痛切な悲しみ、深い憐れみを背負って、主は、「神と富とに兼ね仕えることはできない。それだから、自分の命のことで、自分のからだのことで思い煩うな、空の鳥を、野の花を見てごらん」と呼びかけるのです。
「それだから」がキーワードです。神と富に兼ね仕えることはできないという宣告と、「思い煩うな」という呼びかけが、この一語で密接に結びつけられます。私たち一人ひとりが、失ってしまった神を主人とする生き方と、人がそこで思い煩いにあえぎつつも「進歩、発展」といわれるものを手に入れ続けてきた、「富」を主人とする生き方と、どちらを選ぶかと呼びかけられているのです。誤解しないでいただきたいのですが「神と富」の選択ではない。お金持ちでも立派な信仰を持つ方はたくさんいます。「どちらを主人とするか」という選択です。
私たちが、本日の福音の「思い煩うな」をもし、戒めや、勧めや、教訓として読むなら、私たちの苦しみは増すばかりです。思い煩いを捨てられないことへの思い煩いが増えるだけだからです。私たちは真のいのちから遠ざかるばかりです。
「どちらを主人とするか」。その問いかけに対し、神を、「主人」として自らの人生に再び迎え入れるなら、空の鳥や野の花よりはるかに自由な者へと自分を解き放たないではおられない、思い煩いから自由にならないではおられない、クヨクヨを捨てないではおられないはずだ、…「思い煩いを捨てよ」という重苦しい「戒め」ではなく、そうすれば「思い煩いは消えてゆく」という「福音」が差し出されているのです。そう読まれてはじめて、この福音は私たちを生かす「いのちの言葉」として輝きはじめるのです。
本日の福音はこう結ばれます。
「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、必要な物はすべて添えて与えられるであろう」。