説教 イオアン17:1-13 2023/05/28 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
主イイススは「最後の晩餐」の最後に、天に父に向けてこう祈りました 「永遠のいのちとは、唯一のまことの神でいますあなたと、またあなたがつかわされたイイスス・ハリストスを知ることであります」。
イイススの言葉を聞く時、私たちは表面的な意味にとらわれてはなりません。主はやさしい単純な言葉しか使いません。主は私たちを愛しているからです。 一つが「永遠のいのち」です。「永遠」は「終りのない時間」ではありません。「いのち」は生命現象そのものを指しているのではありません。神さまが人を創造した時に、人さえそれを望むなら、人を喜んでそこへ導くことを約束した「よきもの」、それを「永遠のいのち」と、人の言葉の不充分さを知りつつ、そう表現しないではおられなかったのです。
「よきもの」です。どんなふうに?
美しい、心地よい、楽しい、豊か…、このような「よさ」を表すことばをいくつ積み重ねても、その「よさ」が「何である」かは決して表現できません。「永遠の」という、私たちにまだ見ぬものへのはるかなあこがれを最もかき立てる言葉、「いのち」という、私たちを最も熱く心躍らせる言葉を用いることでしか、ぼんやりと輪郭を象ることしかできない「なにものか」を指し示しているのです。
しかしいっぽうでイイススは、単純に言い切っています。この「永遠のいのち」としか言いようのない「なにものか」とは神とイイススご自身を「知る」ことである、と。そこで私たちは聖書を首っ引きになって読みます。神学を勉強します。聖書を研究します。イイススの歴史的、文化的背景を探ります。しかしその「なにものか」は見つかりません。それは、ここでイイススが言う「知る」という言葉を上っ面でしか理解していないからです。実はここで「知る」と言われていることも、「知る」と表現するほかない「なにものか」なのです。聖書の伝統の中で「知る」といえば、むしろ人がその体験を魂と体の、いちばん深いところに刻み込む、平たく言えば「からだで会得する」ことです。そういえば「女を知る」、「男を知る」と言うのは、表面的に男女の違いを知ることではありませんよね。長い人生の中で男と女が生活を共にし、喜びも悲しみも分かち合うこと、たえず起きる誤解や行き違いを、そのつどお互いのいっそう深い部分で和解していくこと、互いの内の今まで知らなかった深みに目を瞠るような思い、感謝と、喜びの内に入り込み合うことです。
そう。神を知る、ハリストスを知るとは、神との交わり、ハリストスとの交わりをはてしなく深め続けていくことです。祈りの生活に深まりと言いかえることもできるでしょう。
私たちには、祈りといえばお行儀のよい「ご祈祷」しか思い浮かばないかもしれません。しかし祈りは神さまやハリストスへの身を震わせるような抗議や怒り、激しい嘆きであってもよいのです。もちろん祈りは賛美であり、感謝です。しかし「神さまどうしてあなたは、こんな悲しい思いを人に強いるのですか」、そう叫んだことのない人に神へのほんとうの感謝も賛美もあり得ません。ハリストスでさえ「わが神、わが神、なんぞ我を捨てたもうや」と叫びました。生きることそれ自体が、祈りとなる、そういう祈りの生活、それが神を「知る」ことです。
そしてこの神さまを「知り」続ける生活――その中心になければならないのが、肉体をとり人となった神ハリストス・イイススのお体を分かち合う聖体礼儀の集いです。夫婦がお互いの体を喜びと共に分かち合い、そこで確かめられたまったく無条件の信頼の中で様々な葛藤を乗り越え、互いの理解を深めていくように、私たちも神・ハリストスの「血肉」を私たちの体に喜びとして受け入れ続けることによって、神の愛を、人を生かす、また人を互いに愛し得る者とする確かな現実として「知って」ゆきます。みなさんは教会、この聖体礼儀の中で、この世の他の場所では決して味わえない「よき」ものを感じているはずです。そこで私たちは神・ハリストスをまさに「知る」からです。その「よき」ものこそ「永遠のいのち」としか呼びようのない、神が人間に約束してきた、まことの喜びです。
「永遠のいのちとは、唯一のまことの神でいますあなたと、またあなたがつかわされたイイスス・ハリストスを『知る』こと」です。